目次
稲毛三郎重成(いなげ しげなり)
生没年不詳の鎌倉時代初期の鎌倉幕府御家人。
武蔵国稲毛荘を領した御家人で、川崎市多摩区の現生田緑地(枡形城址)や広福寺にゆかりの地があります。
小田急「向ヶ丘遊園」駅構内にある地図に「稲毛跨線橋」という文字を発見しましたが、それ以外、周辺の駅名やバス停、町名、字名などに「稲毛」という地名は見当たりません。
なので、稲毛重成が領した場所は直感的には分かりませんが、稲城駅、稲生橋、稲田堤など、稲が付く文字は残っていますから、それを頼りに連想するという感じでしょうか。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、村上誠基(むらかみまさき)さんが演じられます。
稲毛重成の簡易年表
稲毛重成は、畠山重忠ほどの有名人ではありませんが、吾妻鏡ではよく名前が挙がる御家人です。
年代 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
生誕不詳 | 0 | 誕生 |
治承4年(1180年) | 頼朝挙兵時は平家方として敵対するも、後に秩父一族と共に頼朝へ帰伏 | |
養和2年(1182年) | 金洗沢(七里ガ浜)において催した牛追物に際して恩賞を賜わる | |
寿永3年(1184年) | 「稲毛」姓を使い始め、枡形城を築城 | |
源範頼軍に加わり木曾義仲追討、一ノ谷の戦いにも参加 | ||
文治5年(1189年) | 奥州征伐に参陣 | |
建久元年(1190年) | 頼朝上洛に供奉 | |
建久6年(1195年) | 頼朝再上洛時の帰路に妻の危篤を知り、急ぎ本領に戻るが病没 出家し「稲毛入道」と名乗る | |
建久9年(1198年) | 亡き妻の為に相模川に橋を架ける。 翌年の落成供養に出席した頼朝は帰りに落馬し死去。 | |
元久2年(1205年) | 畠山重忠の乱。 原因は稲毛重成が重忠を讒言したとされ、三浦派に謀殺される |
弓が上手かったのか、養和2年の江ノ島参詣の帰路、金洗沢(七里ガ浜)辺りで行われた牛追物で射当てた回数が多かったため、下河辺庄司、和田小太郎、小山田三郎(本人)、愛甲三郎、とともに恩賞を賜っています。
ただ、家子(年齢がちょっと上だった?)や、弓馬の道に優れた物を飯集めた会合には、弟「榛谷重朝」のみ選ばれていて、弟に差を付けられている感じもしますが・・・。
秩父一族の流れ系図
稲毛重成は秩父一族の血を引いています。
超有名な畠山重忠とは従兄弟、榛谷重朝(はんがや しげとも)は実の弟にあたります。
|
秩父重弘
┣----------┓
畠山重能(?) 小山田有重(?)
| ┣--------┓
畠山重忠(1164) 稲毛重成(?) 榛谷重朝(?)
| | ┣-----┳-----┓
畠山重保 重政 重季 秀重 実重
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
父は小山田有重。母は不明。皆さん「重」という字を引き継いでいることが良く分かりますね。
名字が違えども、名前に同じ文字(通字|とおりじ)が使われている人たちは同じ血筋と思っていいのではないでしょうか。
また、下記に出てくる稲毛三郎重成のお墓にある石板に書かれている内容を系図にすると下記の通り。
稲毛重成周辺の系図
父:小山田有重======母:宇都宮宗綱の娘 北条時政(1138)
| ┏------┳------┓
稲毛三郎重成=======北条時政の娘(?) 北条政子(1157) 北条義時(1163)
|
小沢重政(武蔵国小沢荘)
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
稲毛三郎重成の妻が、北条時政の娘なので、北条政子や義時とは兄弟(姻族)なのですね。
稲毛重成の妻が危篤という情報が届いたとき、義時や政子も妹のことを案じたのかもしれません。
北条時政は、御家人(武士)に対し畠山重忠、宇都宮頼綱などに娘を嫁がせいますから、稲毛重成もそれなりの血筋であると見込まれたのではないでしょうか。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、稲毛重成の妻(あき)役を尾崎真花(おざきいちか)さんが演じられます。
相模川橋供養
稲毛重成の妻(北条政子妹)は、建久6年7月4日に病死しています。
重成別離の愁に耐えず出家、廣福寺を氏寺とし中興、建久9年12月28日 三回忌苦境に相模川に架橋(馬入橋)橋供養をする
枡形城主 稲毛三郎重成之の墓 石板
石板にはこのように書かれていて、源頼朝が落馬し死亡したのは、この橋の落成供養の帰りでした。
稲毛荘の範囲
稲毛荘の範囲は、甲斐の稲毛三郎重成の墓に書かれている内容によると「現川崎市・稲城市」となっています。
川崎市については一部かと思われますが、なかなか広大ですね。
また、父の小山田氏は「現町田市」と書かれています。
稲毛重成(小山田氏)ゆかりの地
広福寺(川崎市多摩区)
小田急「向ヶ丘遊園」駅から歩いて500mほどのところにあるお寺。
標高84mの枡形山中腹にあるので、お寺の直前は急な上り坂になっています。


ここは稲毛三郎重成によって中興されたと伝わっているお寺で、入口には「稲毛領主 稲毛館跡」と掲げられています。


境内の奥にある観音堂の裏手には墓地が広がっていますが、観音堂を背にして右奥側に稲毛三郎重成と内室(妻)のお墓があります。
枡形城址
現生田緑地にある「枡形城址」
標高84mで山頂は平らな公園になっています。形が枡形(四角形)をしているからその名前が付いたそうです。

枡形城址へ登ってくる道は4か所ほどあります。
急坂を登ることになりますが(他も階段とか大変ですが・・・)、広福寺からも登ることが出来ます。この道は日陰も多く歩きやすいです。


枡形門という写真映えする箇所は、広福寺とは違う登り口にあります。
ここにはエレベーター(無料)で昇れる展望台があって、周辺の景色が一望できますのでお勧めです。


登りはエレベーターで帰りは階段で降りましょう。
階段には枡形城跡に関する掲示などがありますのでとっても勉強になりますよ。

鎌倉時代には多摩川沿いには、沢山の城が作られていて鎌倉幕府の北の守りを固めていたようです。
枡形城の左側には、重成の子供で小沢重政が領した小沢城も見えますね。
鎌倉殿の御家人ゆかり地巡り
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) July 18, 2021
多摩区の枡形城跡
畠山重忠の従兄弟で「稲毛三郎重成」ゆかり
稲毛って言う地名が無いからピンとこないけど、稲城とか稲田、稲生で連想しよう😊#鎌倉 #多摩 #稲毛重成 pic.twitter.com/MEpP8rPAWJ
旧相模川橋梁(茅ケ崎市)
妻「北条時政」の娘が死去したのちに、出家した「稲毛重成入道」が後内室追善供養として相模川に架橋をしたと考えられている橋跡です。
この橋の落成供養に参加後、源頼朝は落馬により命を落とします。
その他
スーパーマーケット いなげや
いなげやのHPにある「いなげや物語」その中に下記のようなことが書かれています。
いなげやの前身となる「稲毛屋魚店」の創業者、猿渡 波蔵(さるわたり なみぞう)が生まれ育ったのが、川崎市多摩区と東京都稲城市の境付近にあった農家。
店名は鎌倉時代に波蔵の出生地一帯を統治していた豪族、稲毛三郎重成にあやかったものです。
明治33年のこと。
いいなげやで買い物したくなりますね!