畠山重忠の乱|二俣川古戦場|畠山重忠公終焉の地(横浜市旭区)

畠山重忠の乱|二俣川古戦場|畠山重忠公終焉の地(横浜市旭区)

2022-09-18

今回は、畠山重忠が北条時政の策略にハマり自害、滅亡した場所、横浜市旭区の二俣川古戦場(最寄り駅は相鉄本線鶴ヶ峰駅)へ行ってきました。

鶴ヶ峰・二俣川合戦の地

元久元年(1205年)6月22日 畠山重忠の乱により、畠山重忠一族は滅亡。

日付時間出来事
6月19日畠山重忠菅谷館を出発
6月20日稲毛重成の招きで、畠山重保が武蔵国より鎌倉へ出てくる
6月22日畠山重忠、武蔵国二俣川に到着
6月22日早朝畠山重保、謀叛人として三浦義村の軍勢に討たれる
6月22日昼頃畠山重忠、北条軍と二俣川で遭遇
このとき重保誅殺と数万の追討軍来襲を知る
畠山重忠(享年42)、子重秀以下、家の子、郎党自害し、畠山一族滅亡

上記表には、畠山重忠と子の畠山重保の両名が出てきますので、ご注意ください。

畠山重忠の乱の原因

元久元年(1204年)11月、3代将軍「源実朝」に嫁ぐことになった坊門信清の娘を迎えるために、鎌倉から容儀華麗の壮士15人が選ばれて京都に登った。

その中には畠山重忠の子「重保」も選ばれているが、京都の六角東洞院の平賀朝雅(北条時政 後妻 牧の方の女婿)の屋敷で酒宴が催されたときに、朝雅と重保の間で喧嘩が起った。その時は周囲の人がなだめて一応収束。

が、牧の方は平賀朝雅が悪口を言われたことを根に持って重忠父子を討つことを計画。

畠山一族と北条&牧の方一族の関係図

 牧の方=====北条時政
      |    ┣ーーー┳ーーー┳ 
平賀朝雅==娘    政子  義時  女===畠山重忠
                     |
                     重保

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

系図でみると、畠山重忠は北条時政の女婿ですけど、後妻の意見が強かったんでしょう。
また、畠山重保は平賀朝雅よりかなり年下と思われ、年下に喧嘩売られたらキレるでしょうね・・・。

畠山重忠公ゆかりの地マップ(地図)

畠山重忠公(父重能や子重保も)にまつわる場所を纏めています。
広範囲にわたってますのが、場所をカテゴリで括ってますので、いろいろ触ってみて下さい。

ちなみに各史跡には駐車場がありませんから、駅近くのコインパーキングに停めて史跡めぐりは徒歩で回ることをお勧めします。というかそれしか方法が無い?自転車もあまりの高低差に痺れると思います。

まずは、二俣川古戦場の全体が分かる案内板がありますので、そちらを一番最初に訪れるのをおススメします

畠山重忠公の足跡「二俣川・鶴ヶ峰古戦場」

上記の看板は、初めて二俣川古戦場に行く方は見つけにくいと思います。

やっぱり、一番有名な畠山重忠公碑(古戦場跡)にあると思いますが、ここではなくて、相鉄鶴ヶ峰駅から古戦場跡へ向かう道の左側に現れる「鎧の渡し緑道」の終点付近に設置してあります。

鎧の渡し緑道は、昔の川を埋め立てた道で、昔は川幅も広く渡し舟が使われていたそうです。
鎌倉時代の武士は鎧を頭上にかざして川を渡ったことからこの名前が付いたそう。

首塚

相鉄線「鶴ヶ峰駅」から古戦場跡に行く途中、ちょっと道を外れた場所にあります。
畠山重忠公の首が祀られたところ。

畠山重忠公碑・さかさ矢竹

鶴ヶ峰駅入口交差点の一角に残る古戦場跡。ここが有名な場所でしょうか。
石碑には文字がビッシリ掘ってありますが、鎖のせいで近くまで寄ることができずに、読めません・・・。

駕籠塚(かごづか|重忠の妻)

重忠公碑から約500mほどですが、なかなかの登り坂の終点にポツンと建っています。
「駕籠塚」だけ見ると何のことやら分かりませんが、畠山重忠妻のお墓(史跡)という重要ポイントです。

畠山重忠の内室「菊の前(最初の妻:足立遠元の娘)」が、合戦の知らせを聞いて急遽駆けつけるも、重忠、重秀の戦死を聞き、駕籠ごと埋葬されたと言われた場所。

菊の前 ===== 畠山重忠 ===== 北条時政娘
      |          |
      重秀         重保

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

薬王寺(六ツ塚)

北条軍との合戦に敗れた、畠山主従一同が六ケ所に葬り代々伝わる場所。
薬王寺の境内のお隣にあります。

六ツ塚の説明が結構細かくて興味深いです。

鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎はここ霊堂の前方帷子川を越えた彼方の台地(万騎が原)方面から突然攻め寄った。
公は策にかかったとは知ったが武士としてここに決戦を覚悟した。この時、公の重臣らは一度菅谷の館に引き返し軍を整えて鎌倉方を待たるるよう進言したが、公は毅然としてしかすれば我に陰謀があったと無実が事実となり永久に汚名を着ると諭した

この薬王寺周辺も高台にあって、今は住宅街になって視界が所々遮られますが、下記写真のように遠方まで見渡すことができるところです。

薬王寺周辺の高台からの景色(万騎が原方面)

下記写真の右側のような小さな塚が6つあるので六ツ塚と。

すずり石水跡

住宅街の中に棒標だけ建っています。
直ぐ近くは近くにお住まいの方の駐車場。下の排水溝みたいなのがそうなのでしょうか・・・。

なかなかのがっかり系史跡。時間が無いなら、ここは省いてもよさそうです。

矢畑・越し巻き

高台から降りてきた大きな道路沿いにありますが、こちらも棒標だけの史跡になります。
今は住宅街ですが、昔は草原だったのでしょうか? 合戦で矢の畑のようになった場所だとか。

今の時代では、想像つきませんね。ARかなんかで見せて頂きたいものです。

ちなみに、この矢畑・越し巻き史跡の近くにあるラーメン屋「支那そばや」平日のお昼時でも無いのに30人以上ならんでました。なんでも閉店数日前だったようです。お疲れ様でした!

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