北条義時|鎌倉殿の13人の主人公、鎌倉幕府2代執権と北条氏一門

北条義時|鎌倉殿の13人の主人公、鎌倉幕府2代執権と北条氏一門

2020-05-27

今回は北条義時を中心に、そこから派生した北条氏一門等を整理してみたいと思います。

北条義時(ほうじょう よしとき)

1163-1224年。鎌倉幕府の2代執権。北条時政の二男で、北条政子の弟。
朝廷軍(後鳥羽上皇方)と戦った、承久の乱では勝利し、3人の上皇を配流した。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小栗旬さんが演じられています。

北条義時の簡易年表

時期年齢出来事
長寛元(1163)年0誕生(北条時政の次男)
治承4(1180)年18頼朝の挙兵に従う
石橋山の戦いで敗戦後、父時政と甲斐国へ向かう
養和元(1181)年19頼朝の寝所を警護する11名の内(家子)に選ばれる
元暦2(1185)年23平家追討軍(源範頼軍)に参加し西国へ
文治5(1189)年27奥州合戦に従軍
建久元(1190)年28頼朝が上洛
右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれ参院の供奉
正治元(1199)年37十三人の合議制の一人に選ばれる
建仁3(1203)年41比企能員の変
鎌倉幕府軍として比企一族を滅ぼす
元久2(1205)年43畠山重忠の乱
人望の厚い畠山討伐に反対したが、最終的には時政に従う
健保元(1213)年51和田合戦
合戦に勝利、和田義盛に代わり侍所別当となり幕府要職を抑える
承久元(1219)年57鶴岡八幡宮で将軍源実朝公暁に暗殺される
承久3(1221)年59承久の乱
元仁元(1224)年62急死(死因は毒殺とも、衝心脚気とも)

小さい頃の名前

北条義時は、小さいころ「江間小四郎」とか「江間四郎」等と呼ばれてました。
伊豆半島の中心部にある江間の土地と名前を受け継いだんですね。

静岡県伊豆の国市南江間

※伊豆の国市北江間もあります。

改名で「徳宗」

北条義時の戒名の一つに「徳宗」っていうのがあり、これが北条氏惣領の家系「得宗家」の由来になったのではと言われています。

鎌倉を詳しく勉強し始めたときから、得宗家って?って思っていました。

北条義時周辺の系図

鎌倉幕府の北条体制を確立させたのは、北条義時と言っても過言ではありません。
以降の鎌倉時代を把握するためにも、得宗家以外の北条氏庶流を掴んでおくと理解が進みます。

北条時方
 |
伊東祐親の娘=====北条時政=====足立遠元の娘
  ┌----┬----┼----┬-----┬--
  宗時   政子   義時   阿波局   時房   
  ┌----┬----┼----┬----┬----┐                   
  泰時   朝時   重時   政村   有時   実泰
 [得宗]   [名越]  [極楽寺]      [伊具]   [金沢]

北条義時は、嫡男では無かったので、江間地区を与えられて江間小四郎義時と名乗り、庶流の道を歩んでいましたが、石橋山の戦いで長男の宗時が戦死しため、北条氏の家督を継ぐことになります。

が、北条時政は別の子供に家督を継がそうとも画策し、北条義時との親子仲が悪くなったとも。

父親と兄弟姉妹

父は北条時政(1138-1215年|鎌倉幕府 初代執権)母は伊藤祐親の娘です。
姉に源頼朝の妻となる北条政子(1157-1225年)がいますが、生母は不明なので、同母姉ではなさそうです。

異母弟に、北条時房(1175-1240)がいます。
母は足立遠元(1130前半-?|鎌倉殿の13人の一人)の娘です。

姉の政子は6才年上、弟の時房は12才年下。
昔の兄弟は年が離れることもままありますから、今の間隔で考えると混乱しますね。

義時の妻とその子供たち

北条義時の世代から、北条一門が〇〇流と分かれていきました。メイン所は押さえておきたいです。

側室:阿波局

 北条泰時(1183-)得宗家(執権:1,2,3,4,5,8,9,14)

側室の阿波局、実は伊東祐親の娘で源頼朝の最初の妻「八重姫」という説もあります。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、新垣結衣(八重役)さんが演じられています。

正室:姫の前

 北条朝時(1193-)名越流
 北条重時(1198-)極楽寺流(執権:13)・赤橋流(執権:6,16)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、堀田真由(比奈役)さんが演じられています。

継室:伊賀の方

 北条政村(1205-)政村流(執権:7,12)
 北条実泰(1208-)金沢流(執権:15,17?)

本来なら、正室の嫡男「北条朝時」が、北条家主流を継ぎそうですけど、ココは子供の年齢で一番兄の「北条泰時」が得宗家を継いで3代執権になったんですね。

名越流としては複雑でしょう。

案の定、朝時の次の代からは、得宗家に常に反抗的だったようで、いろいろ問題を起こしたようです。
実際、執権職になれた人はいませんでした。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、菊地凛子(のえ役)さんが演じられています。

義時の兄弟(時房)からの流派

もう一つ、北条義時の異母弟「北条時房」からも流派が分かれています。

 北条時盛(1197-)佐助流
 北条朝直(1206-)大仏流(執権:11)

義時と時房は一回り年齢が違う兄弟なので、子供も泰時と時盛では14才ほど違いますね。

極楽寺坂の石碑を読むときに「大佛陸奥守貞直」っていう人物が書かれていました。
この北条一門を知っていると、なんとか大佛→大仏→北条氏大仏流→北条一族という流れがイメージできますね。

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「北条政村」は政村流と地名じゃなくて名前を付けていますけど、改名に「常盤院覚崇」とあって鎌倉市常盤に所縁があることも分かります。タチンダイには政村の名前がありますし。

北条氏一門が分かれ始めたのは「北条義時」の時代から。
やっぱり鎌倉幕府の執権時代は、彼が中心人物なんですよね。教科書では影が薄いですけど。

北条義時ゆかりの地

北條寺

伊豆の国市の江間地区にある北條寺(北条寺)は、北条義時創建と伝わります。
仏殿の本尊「阿弥陀如来坐像」は運慶に命じて作らせたようです。

北条義時夫婦の墓

北條寺境内の小さな丘「小四郎山」の山頂には、北条義時夫婦の墓が建っています。
向かって右が「北条義時」、左が後妻の「佐伯氏の娘(伊賀の方)」だそうです。

法華堂跡(北条義時墓)

鎌倉市にある法華堂跡。ここの平場は北条義時墓と伝わります。

覚園寺

鎌倉市にある覚園寺は、北条義時が立てた薬師堂が前身のお寺です。

参考図書

北条義時について勉強になったなーを思う本は下記2冊です。

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