今回は北条義時を中心に、そこから派生した北条氏一門等を整理してみたいと思います。
目次
北条義時(ほうじょう よしとき)
1163-1224年。鎌倉幕府の2代執権。北条時政の二男で、北条政子の弟。
朝廷軍(後鳥羽上皇方)と戦った、承久の乱では勝利し、3人の上皇を配流した。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小栗旬さんが演じられています。
北条義時の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
長寛元(1163)年 | 0 | 誕生(北条時政の次男) |
治承4(1180)年 | 18 | 頼朝の挙兵に従う 石橋山の戦いで敗戦後、父時政と甲斐国へ向かう |
養和元(1181)年 | 19 | 頼朝の寝所を警護する11名の内(家子)に選ばれる |
元暦2(1185)年 | 23 | 平家追討軍(源範頼軍)に参加し西国へ |
文治5(1189)年 | 27 | 奥州合戦に従軍 |
建久元(1190)年 | 28 | 頼朝が上洛 右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれ参院の供奉 |
正治元(1199)年 | 37 | 十三人の合議制の一人に選ばれる |
建仁3(1203)年 | 41 | 比企能員の変 鎌倉幕府軍として比企一族を滅ぼす |
元久2(1205)年 | 43 | 畠山重忠の乱 人望の厚い畠山討伐に反対したが、最終的には時政に従う |
健保元(1213)年 | 51 | 和田合戦 合戦に勝利、和田義盛に代わり侍所別当となり幕府要職を抑える |
承久元(1219)年 | 57 | 鶴岡八幡宮で将軍源実朝が公暁に暗殺される |
承久3(1221)年 | 59 | 承久の乱 |
元仁元(1224)年 | 62 | 急死(死因は毒殺とも、衝心脚気とも) |
小さい頃の名前
北条義時は、小さいころ「江間小四郎」とか「江間四郎」等と呼ばれてました。
伊豆半島の中心部にある江間の土地と名前を受け継いだんですね。
静岡県伊豆の国市南江間
※伊豆の国市北江間もあります。
改名で「徳宗」
北条義時の戒名の一つに「徳宗」っていうのがあり、これが北条氏惣領の家系「得宗家」の由来になったのではと言われています。
鎌倉を詳しく勉強し始めたときから、得宗家って?って思っていました。
北条義時周辺の系図
鎌倉幕府の北条体制を確立させたのは、北条義時と言っても過言ではありません。
以降の鎌倉時代を把握するためにも、得宗家以外の北条氏庶流を掴んでおくと理解が進みます。
北条時方
|
伊東祐親の娘=====北条時政=====足立遠元の娘
┌----┬----┼----┬-----┬--
宗時 政子 義時 阿波局 時房
┌----┬----┼----┬----┬----┐
泰時 朝時 重時 政村 有時 実泰
[得宗] [名越] [極楽寺] [伊具] [金沢]
北条義時は、嫡男では無かったので、江間地区を与えられて江間小四郎義時と名乗り、庶流の道を歩んでいましたが、石橋山の戦いで長男の宗時が戦死しため、北条氏の家督を継ぐことになります。
が、北条時政は別の子供に家督を継がそうとも画策し、北条義時との親子仲が悪くなったとも。
父親と兄弟姉妹
父は北条時政(1138-1215年|鎌倉幕府 初代執権)母は伊藤祐親の娘です。
姉に源頼朝の妻となる北条政子(1157-1225年)がいますが、生母は不明なので、同母姉ではなさそうです。
異母弟に、北条時房(1175-1240)がいます。
母は足立遠元(1130前半-?|鎌倉殿の13人の一人)の娘です。
姉の政子は6才年上、弟の時房は12才年下。
昔の兄弟は年が離れることもままありますから、今の間隔で考えると混乱しますね。
義時の妻とその子供たち
北条義時の世代から、北条一門が〇〇流と分かれていきました。メイン所は押さえておきたいです。
側室:阿波局
北条泰時(1183-)得宗家(執権:1,2,3,4,5,8,9,14)
側室の阿波局、実は伊東祐親の娘で源頼朝の最初の妻「八重姫」という説もあります。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、新垣結衣(八重役)さんが演じられています。
正室:姫の前
北条朝時(1193-)名越流
北条重時(1198-)極楽寺流(執権:13)・赤橋流(執権:6,16)
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、堀田真由(比奈役)さんが演じられています。
継室:伊賀の方
北条政村(1205-)政村流(執権:7,12)
北条実泰(1208-)金沢流(執権:15,17?)
本来なら、正室の嫡男「北条朝時」が、北条家主流を継ぎそうですけど、ココは子供の年齢で一番兄の「北条泰時」が得宗家を継いで3代執権になったんですね。
名越流としては複雑でしょう。
案の定、朝時の次の代からは、得宗家に常に反抗的だったようで、いろいろ問題を起こしたようです。
実際、執権職になれた人はいませんでした。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、菊地凛子(のえ役)さんが演じられています。
義時の兄弟(時房)からの流派
もう一つ、北条義時の異母弟「北条時房」からも流派が分かれています。
北条時盛(1197-)佐助流
北条朝直(1206-)大仏流(執権:11)
義時と時房は一回り年齢が違う兄弟なので、子供も泰時と時盛では14才ほど違いますね。
極楽寺坂の石碑を読むときに「大佛陸奥守貞直」っていう人物が書かれていました。
この北条一門を知っていると、なんとか大佛→大仏→北条氏大仏流→北条一族という流れがイメージできますね。
大仏流北条氏
金沢流北条氏
金沢文庫や金沢区にある称名寺を建てたのは金沢流北条氏です。
極楽寺流北条氏
極楽寺の開基「北条重時」(開山は忍性)は極楽寺流北条氏の祖です。
政村流北条氏
「北条政村」は政村流と地名じゃなくて名前を付けていますけど、改名に「常盤院覚崇」とあって鎌倉市常盤に所縁があることも分かります。タチンダイには政村の名前がありますし。
北条氏一門が分かれ始めたのは「北条義時」の時代から。
やっぱり鎌倉幕府の執権時代は、彼が中心人物なんですよね。教科書では影が薄いですけど。
北条義時ゆかりの地
北條寺
伊豆の国市の江間地区にある北條寺(北条寺)は、北条義時創建と伝わります。
仏殿の本尊「阿弥陀如来坐像」は運慶に命じて作らせたようです。
北条義時夫婦の墓
北條寺境内の小さな丘「小四郎山」の山頂には、北条義時夫婦の墓が建っています。
向かって右が「北条義時」、左が後妻の「佐伯氏の娘(伊賀の方)」だそうです。
法華堂跡(北条義時墓)
鎌倉市にある法華堂跡。ここの平場は北条義時墓と伝わります。
覚園寺
鎌倉市にある覚園寺は、北条義時が立てた薬師堂が前身のお寺です。
参考図書
北条義時について勉強になったなーを思う本は下記2冊です。