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功臣山 報国寺(こうしんざん ほうこくじ)
報国寺は鎌倉市浄明寺にある、臨済宗建長寺派のお寺。
鎌倉幕府が滅亡した翌年、建武元(1334)年の創建。
足利氏と上杉氏の菩提寺として栄えて、衣張山まで境内に含む広大なお寺だったようです。
拝観料(300円)が必要ですが、仏殿裏は孟宗竹の竹林があって、報国寺は竹の寺で有名です。
開基:足利家時
足利家時(1260-1284)は足利尊氏の祖父。
とはいえ、創建の1334年には足利家時は生きていませんから、家時の土地を寄進したということでしょう。
足利頼氏=====上杉重房の娘(上杉氏の祖)
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足利家時=====北条時茂の娘(常盤流)
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足利貞氏
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足利尊氏 足利直義
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足利義詮 足利基氏
(室町将軍家) (鎌倉公方)
また、宅間上杉の祖「上杉重兼」という説もあります。
開山:天岸慧広(てんがんえこう|仏乗禅師)
天岸慧広(1273-1335)、武蔵比企郡生まれ、臨済宗の僧侶
13歳から無学祖元(円覚寺開山)に師事。1320年には中国(元)に渡って修行を積んだ高僧。
横須賀市にある、三浦一族ゆかりのお寺「満昌寺」の中興開山でもあります。
宅間ヶ谷
報国寺のある場所から奥に向かう谷戸は「宅間ヶ谷」と呼ばれています。
鎌倉幕府の絵師だった「宅間為行」が住んでいたので、この名前がついたと言われているそうです。
鎌倉にある上杉4家(山内、扇谷、犬懸、宅間)の内、宅間上杉家はこの辺に住んでいたのでしょう。
関東管領も輩出せず、特に大きな活躍もなく、山内上杉家に吸収されていきました。
足利義久自害の地
足利持氏(鎌倉公方)と足利義教(室町将軍)&上杉憲実(関東管領)が激突した永享の乱。
最終的には足利持氏は永安寺(瑞泉寺塔頭)で自害、その嫡男だった「足利義久(幼名:賢王丸)」もココ報国寺で自害したとされています。
「足利義久」って名前からは、「義」という通名が使われていることもあって室町将軍家の人物と思いきや、室町将軍になれなかった足利持氏が、子の名前に「義」を使ってしまうという反抗的な態度を取って付けた名前。これも永享の乱の要因の一つになりました。
報国寺の境内には、多くの五輪塔が置かれています。
石碑の一つには、新田義貞が鎌倉へ攻めてきた時に合戦となり多くの戦死者が出ましたが、その遺骨の供養塔ということが書かれています。
後ろにある卒塔婆には「上杉禅秀」の名前が書いていて、上杉氏憲(禅秀)を供養してそうです。
そしてひときわ大きな五輪塔。
誰のものか何も書かれていないので分かりませんか、開基の「足利家時」とか、報国寺に大きく関わりのある人物のような気もします。
報国寺(竹の庭)の境内
報国寺の有料ゾーン、竹の庭にある境内の見どころを何点か挙げてみます。
木下利玄の歌碑
木下利玄(1886-1925|きのした りげん)、日本の歌人
岡山県、足守藩最後の藩主「木下利恭」の弟の次男として生まれます。
足守藩、木下という名字から、木下藤吉郎(豊臣秀吉)繋がりかと思われます(だいぶ遠いですけど)
白樺派の代表的歌人の一人ということで、白樺派の多くが鎌倉へ移住してきましたが、そのうちの一人に木下利玄もいたようですね。
鎌倉検定本には、長与善郎(父が長与専斎)が1919(大正8)年に鎌倉の大町に一家で移り住み、その近所に、木下利玄が住んでいた。と書いています。
伝足利義久の墓(足利一族の墓)
竹の庭と仏殿の奥側に、3つの繋がった穴がある大きなやぐらがあります。
中には多くの五輪塔が並んでいます。
2023年時点では、落石の危険性があるということであまり近づけないので、詳しいことは分かりませんが、足利一族の墓と伝わっているそうで、その中の一つが「足利義久(足利持氏の子)」のモノかもしれません。
休耕庵
開山の塔頭だった「休耕庵」、今は茶席「休耕庵」になっています。
竹の庭の拝観料は300円、抹茶(干菓子付)は600円になっています。(2023年時点)
折角、報国寺に来たのであれば、竹の庭を見ながらのんびり抹茶でも。週末は混んでてのんびりできないかもしれませんが・・・。