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亀の前(かめのまえ)
生没年不詳
良橋太郎入道(よくはしたろう)の娘
流人時代の伊豆での生活の頃から側に仕え、容貌がすぐれているだけてなく、性格も穏やか。
頼朝と関係を持ち始めたのは、妻の政子が妊娠六か月目くらいから、密かに関係を持ったという。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、江口のりこさんが演じられます。
亀の前の簡易年表
北条政子が源頼家の妊娠中に、亀の前との関係が深まっていますね。
年 | 月日 | 出来事 |
---|---|---|
生誕不詳 | 誕生(父:良橋太郎入道) | |
寿永元(1182)年 | 3月9日 | 北条政子の御着帯(妊娠五か月目) |
6月11日 | 小坪(逗子市)の小中太光家の宅に招いた | |
8月12日 | 北条政子が源頼家を出産 | |
11月10日 | 北条政子、亀前が居る飯島にある伏見冠者広綱宅を破壊 | |
12月10日 | 小坪(逗子市)に移り住む | |
不明 | 三崎にある大椿寺に移住か? |
また、北条政子が次男「源実朝」を妊娠している建久3(1192)年、格別に頼朝がとても気に入っていた「姫の前(女官)」を北条義時が1~2年前から気に入っていたと頼朝が知り、義時と姫の前を結婚させました。
義時が「姫の前」を好きにならなかったら、「亀の前」のような事になっていたかもしれません・・・。
吾妻鏡より
亀の前は吾妻鏡にも「亀前」として出てくる女性です。ただし、寿永元(1182)年の3日のみです。
それ以降のことは分かりません。
源頼朝と亀前
寿永元(1182)年 6月1日
頼朝は寵愛の亀前という妾女を小中太光家の小坪の家に招いた。
通うことを他人に聞かれては(知られては)困るので、お浜出になるにも便利で、かつ、住むところを(鎌倉から)遠い場所に構えたという。
寿永元(1182)年11月10日
亀の前は、伏見冠者広綱の飯島の家に住んでいたが、時政の後妻「牧の方」がチクったため、政子にバレてとても怒った。
政子は牧の方の兄「牧宗親」に命じて、広綱宅を破壊した。
広綱と亀の前はかろうじて逃げ出し、太多和五郎義久(三浦義澄の弟)の鐙摺の家に行った。
寿永元(1182)年12月10日
亀の前が小中太光家の小坪の自宅に移り住んだ。
北条政子が怒るのを怖がっていたが、頼朝の寵愛が日々募ったため、やむなく従った。
騒動に巻き込まれた人1(牧宗親)
寿永元(1182)年11月12日
広綱の家を破壊した牧三郎宗親に頼朝は非常に怒り、宗親の髻を切ってしまった。
宗親は泣いて逃亡した。
2日後の11月14日、その事件を聞き不満を抱いた北条時政が伊豆北条へ帰ってしまった。
牧宗親が、北条時政の後妻「牧の方」の兄だったからだ。
┌----┐
北条時政======牧の方 牧宗親
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義時 政子 阿波局 時房 政範 平賀朝雅室
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
頼朝はとても怒ったが、同時に義時まで一緒に伊豆に戻ってないかを梶原景季に調べさせ、鎌倉に留まっていることを確認し、安堵した頼朝は、義時に後日褒美を与えると伝えたのだった。
騒動に巻き込まれた人2(伏見冠者広綱)
寿永元(1182)年12月16日
北条政子の怒りにより、(亀の前を匿っていた)伏見冠者広綱は遠江国配流されてしまいました。
その伏見広綱が鎌倉へ来て頼朝に初めて会ったのが、同年5月。
頼朝夫妻に振り回されっぱなしの半年間でした(汗)
ちなみに、伏見広綱(遠江国の住人)を推薦したのが、当時遠江国守護だった安田義定です。
養和2(1182)年5月12日のこと(吾妻鏡)
亀の前ゆかりの地
飯島
伏見冠者広綱(頼朝の右筆)が住んでいた場所。
現在、飯島という住居表示は無いが、和賀江島の付近を飯島岬、小坪飯島公園などの地名が残る。


小坪
小中太(中原)光家(政所知家事)が住んでいた場所。
逗子市小坪という住所がある。


鐙摺(あぶずり)
太多和五郎義久(三浦義澄の弟)が住んでいた場所。
葉山町にある葉山マリーナの隣が鐙摺港。近くに伊東祐親の供養塔がある鐙摺山などの地名が残る。

大椿寺(椿の御所)
この御所には頼朝の側室(亀の前?)が住んでいて、頼朝の死後は尼となり「妙悟尼」と称して、30年余りココで頼朝の菩提を弔ったそうです。

