目次
妙本寺(みょうほんじ)
妙本寺の概要
鎌倉市大町にある日蓮宗の寺院。長興山妙本寺。
比企能員の末子「比企大学三郎能本」が日蓮上人に帰依し、文応1(1260)年に一族の屋敷跡に法華堂を建てたのが始まりです。
山号の長興は、能本の父「比企能員」の法号、寺名の妙本は、能本の母「道(大河ドラマでは)」の法号。

妙本寺は24時間開いています。拝観料は志納となっています。
比企一族と妙本寺
源頼朝が生まれてから、伊豆へ配流になって約20年間の流人生活も含めて、ひたすら支援してきた、乳母の「比企尼(ひきのあま)」
治承4(1180)年に頼朝が鎌倉へ行った後、比企尼を鎌倉に呼び寄せて、敷地を与えたのが妙本寺の場所「比企ヶ谷(ひきがやつ)」です。
それから、政子の頼家出産の時にも比企ヶ谷の比企尼の館が使われ、かつ比企能員は頼家の乳母父にもなり、源氏との繋がりが太い一族でした。
比企能員とは?
比企尼の猶子。
比企尼には3人の娘がいましたが、男子がおらず、猶子にしたのが比企能員です。
以降、比企尼からの推薦もあって、比企能員は頼朝の御家人として仕えることになります。
比企能員邸跡
比企尼時代からの比企一族の館跡。
比企能員の乱で比企一族が滅ぼされるも土地は没収されなかったのか、逃げ延びた能員の末子「能本(よしもと)」が後に、日蓮に帰依して喜捨しました。
妙本寺の見どころ
妙本寺には、比企一族に関連する史跡がたくさん残っています。
また、日蓮宗最古の寺院ということで、熱心な日蓮宗の信者だった、加賀藩の前田利家の側室「千代保」の供養塔もあります。
大河ドラマ「利家とまつ」では、千代保を田畑智子さんが演じられました。
比企一族の墓
妙本寺の境内右奥に「比企能員公一族之墓」と書かれた石標の奥に、供養塔が数基並んでいます。


一幡之君袖塚(いちまんのきみそでづか)
2代将軍頼家の側室「若狭局」が産んだ嫡子一幡君。
建仁3年(1203)9月2日、比企の乱によって、一幡君の小御所も焼かれ、僅か6歳にて火中に命を終えられました。その焼け跡に残った一幡君の小袖を供養するため建てられたのが袖塚です。(妙本寺HPより)


源媄子(よしこ|竹御所)の墓
2代将軍頼家の側室「若狭局」が産んだ姫君「竹御所」
比企の乱で一族が滅ぼされ、生き残った媄子は、祖母 北条政子の死後、幕府の中で唯一、頼朝の血をひく者として御家人一同の尊敬を集め、彼らをまとめる役割を果たしました。
幕府は政権維持のため、京都から藤原頼経を迎え、4代将軍とし、媄子は4代将軍の奥方に。
懐妊しましたが死産で、本人も32歳で死去されました。(妙本寺HPより)


蛇苦止堂(じゃくしどう)
源頼家の側室「若狭局(讃岐局)」ゆかりの堂です。
妙本寺の方丈門(事務所へ上がる階段にかかる門)をくぐらずに、左側の道を歩いて行くと着きます。
比企能員の娘で2代将軍頼家公の側室「若狭局」は、比企氏の乱にてこの比企谷の地で火攻めに遭い、池(一説には井戸)に身を投げ死亡しました。
この乱より50年ほど後、北条政村の娘が何かに取憑かれて座敷をのたうち回り苦しみ、「北条家に恨みがある。わらわは若狭局(讃岐局)。今は蛇身を受け、比企谷の土中で苦しみを受けている」と語りました。
若狭局(讃岐局)の弟にあたる比企能本は日蓮聖人に救いを求め、日蓮聖人は、讃岐局の怨霊を法華経の功徳を以て成仏せしめ、蛇苦止明神と名付けて祀りました。(妙本寺HPより)


妙本寺の花
妙本寺の境内には四季折々の花が咲きます。とくに有名な花に絞って下記に纏めました。
カイドウ
妙本寺のカイドウは3代目、「中原中也の思ひ出」に描いたカイドウが以前はあった。
ノウゼンカズラ
妙本寺の二天門背後に咲くノウゼンカズラ、棚と梅の古木に巻き付いた左右一対が鮮やかな花をつける。