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佐竹秀義(さたけ ひでよし)
1151-1226
清和源氏義光流の流れを組む常陸源氏。
平家との縁が深かったため、頼朝挙兵時の当初は敵対していたため、富士川の戦い後、頼朝は背後にいる佐竹氏を警戒したこともあり上京せずに鎌倉にとどまった。
佐竹秀義の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
仁平元(1151)年 | 0 | 誕生(父:佐竹隆義) |
治承4(1180)年 | 30 | 頼朝の挙兵に、平家の縁が深い佐竹氏は従わず |
10月 | 富士川の戦い後、佐竹氏討伐を決定 上総広常に兄義政が殺害される | |
11月 | 砂金城の戦い 頼朝軍に砂金城を攻め落とされ、奥州に逃亡する | |
文治5(1189)年 | 39 | 奥州合戦 頼朝軍の一員として参戦、武功を挙げ御家人になる |
建久元(1190)年 | 40 | 頼朝の上洛に随行 |
承久3(1221)年 | 72 | 承久の乱 佐竹秀義の子らが参戦し、功を挙げる |
嘉禄元(1225)年 | 76 | 鎌倉名越館にて死去 |
佐竹氏家紋の由来
文治5(1189)年、藤原泰衡を討伐するために奥州平泉へ向かった源頼朝軍。
その時に、佐竹秀義が宇都宮で合流し御家人となった。
秀義の旗が、自分と同じ無紋の白旗だったのを見とがめた頼朝は、識別のために満月が描かれた自身が持っていた扇を与えて旗の上に付けさせた。
それが佐竹家の家紋「五本骨の扇に月」の紋の由来になったと言われています。

佐竹秀義周辺の系図(義光流)
佐竹氏は清和源氏義光流の流れをくみます。
義光流には、鎌倉幕府で活躍した人物が沢山いて大変です・・・。
源頼義
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源義家 源義光
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| 源義業(常陸源氏) 源義清 平賀盛義(平賀氏)
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| 佐竹昌義(佐竹氏) 源清光(甲斐源氏) 平賀義信
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源義朝 佐竹隆義 武田信義(武田氏) 平賀朝雅
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源頼朝 佐竹秀義 一条忠頼(甲斐一条氏)
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※携帯(スマホ等)で見る場合は横長にしてご覧ください
佐竹秀義周辺の系図(身内)
八田宗網
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佐竹隆義 宇都宮朝綱 八田知家 寒川尼
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佐竹義政 秀義=====女 業綱
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義重
佐竹秀義の妻は宇都宮朝綱(八田知家、寒川尼の兄)の娘。近くの豪族から妻を迎えています。
頼朝挙兵時から従っておけば、平賀氏のように源氏門葉として重用されていたかもしれません。
金砂城の戦いで敗北した秀義の所領は没収され、八田氏に移っています。
また、佐竹氏は上総氏とも姻戚関係があったと伝わっています。
兄 佐竹義政
不詳-1180
清和源氏義光流の流れを組む常陸源氏。
保元の乱・平治の乱では、平清盛方に属して戦い、常陸七群を領した。
佐竹秀義兄「義政」の近習、岩瀬与一太郎
秀義の兄「義政」の家人に、岩瀬与一太郎という頼朝に対して諫言した人物がいます。
佐竹秀義と同じく、頼朝の御家人となります。
佐竹秀義ゆかりの地
大宝寺(佐竹屋敷跡)
応永6(1399)年に、佐竹氏の一族「佐竹義盛」が出家して創建された寺院(多福寺)
後に日蓮宗の僧が再興して多福山大宝寺となりました。


この辺は、佐竹氏の祖「新羅三郎義光」が、兄の源義家と一緒に「後三年の役」を鎮めた後に、鎌倉のこの地に屋敷を構えて、以降佐竹氏の屋敷になったと伝わります。
佐竹寺(北向観音)
茨城県常陸太田市にある佐竹寺は、坂東三十三観音第22番札所の寺院。本尊は十一面観音。
佐竹氏の初代「佐竹昌義(新羅三郎義光の孫)」が、寺領を寄進し佐竹氏代々の祈願所と定め、寺観を整えた。
この寺で節が一つしかない竹を見つけ、佐竹氏を称したとされる。


本堂は北向に建てられていて北向観音と呼ばれている。茅葺の本堂には佐竹氏の家紋があり国指定重要文化財。
佐竹稲荷神社(千代田区内神田)
江戸時代初期に、出羽秋田藩の藩主「佐竹義宣」の屋敷地だった千代田区内神田周辺は「旭町(あさひちょう)」と名付けられました。
明治二年に、この辺が慶長9年(1604)から七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷だったと言うことで、当時の役人が佐竹氏の家紋から「旭町」と付けました。
家紋の月と日輪を間違えたようです。佐竹氏の歴史を知らないお役人だったんでしょうね。


今は地図上から旭町と地名は消えましたが町会の名前として今も存続しています。
鎌倉で言うと大町にある、米町のような感じでしょうか。