武田信義|富士川の合戦で勝利に貢献、新羅三郎義光の曾孫で初代甲斐源氏

武田信義|富士川の合戦で勝利に貢献、新羅三郎義光の曾孫で初代甲斐源氏

2021-11-05

武田信義(たけだ のぶよし)

1128-1186?
新羅三郎義光の曾孫、甲斐源氏4代当主、武田氏初代当主。戦国時代に活躍した武田信玄(甲斐源氏としては19代。武田氏としては16代目)は遠い子孫。幼名は龍光丸。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、八嶋智人さんが演じられます。

武田信義の簡易年表

時期年齢出来事
大治3(1128)年0誕生(父:源清光)
保延6(1140)年13武田八幡宮にて元服、武田太郎信義と名乗る
治承4(1180)年53以仁王の令旨を戴き挙兵、富士川の戦いで勝利し駿河守護になる
元暦元(1181)年54頼朝に起請文を書かされる
甲斐源氏、頼朝軍と義仲軍とで分裂
寿永3(1184)年57頼朝軍として、木曽義仲追討一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いに参加
子、一条忠頼が鎌倉に招かれ暗殺
文治2(1186)年?59病没(吾妻鏡に記載あり)
建久元(1190)年頼朝の上洛に供奉
建久5(1195)年由比ガ浜の小笠懸に射手として参加(吾妻鏡最後の記事)

甲斐源氏への使者「北条時政」

治承4(1180)年9月8日

北条時政が頼朝の使者として甲斐国へ出発した。
甲斐源氏らと共に信濃国へ行き、降伏するものは引き連れ、降伏しない物は討ち滅ぼせと厳命を受けていた。

同年9月10日

武田信義一条忠頼父子以下は、平氏方の信濃国に出陣。

同年9月15日

信濃国中の平家方を討ち、昨夜甲斐国へ帰り、そこへ北条時政が到着し頼朝の命令を伝えた。

頼朝に対し起請文を書く

頼朝の挙兵からわずか1年でライバルだった甲斐源氏を支配下に置いてしまいました。

養和元(1181)年3月7日

三善康信が、京から書状で次のように申し送ってきた。
後白河院の殿上で話し合いがあり、武田信義に対して頼朝追討を命令した」との風聞があります。と。

頼朝は信義を不審に思い、事情を聞いたところ駿河国より参着し「追討使など賜っていないし、命令があっても受けるはずがない。異心も抱いていないのは去年の功績からもお分かりでしょう」と。

「子々孫々に至るまで、御子孫に対し、弓を引きません」という起請文を書いて、ようやく頼朝と対面した。

対面中も用心の為、三浦義澄下河辺行平・佐々木定綱・佐々木盛綱・梶原景時が、御座の左右に控えた。

文治2(1186)年以降の武田信義

文治2(1186)年3月9日

武田信義が亡くなった(享年59)。
元暦元年に子の一条忠頼の反逆により、頼朝の怒りが解けないうちに無くなってしまった。

※これ以降、建久元年、建久5年にも吾妻鏡に登場していて、上記は間違いだと考えられるそうです。

建久元(1190)年11月9日

頼朝が院と内裏に参上するため、午後4時六波羅を出発した。
その行列、後方の随兵7騎の最後に武田太郎信義

建久5(1194)6月28日

東大寺造営の件、頼朝は御家人に割り当てて造立するため、武田太郎信義に持国天を命じた。
造営の進捗が凄く遅れている為に、本日催促があった。

同年11月21日

三島社の神事が鶴岡八幡宮で行われ、その後、御霊社(坂ノ下)の前浜で小笠懸があり、和田義盛が奉行した。
射手の一人に 武田太郎信義

武田信義周辺の系図

武田信義には、双子の兄「逸見光長」をはじめとして、多くの兄弟がいて、その子供たちがいます。
名字も変えていくので、甲斐源氏を把握するのはなかなか大変です。

源清光
 ├---------┬----------┬
武田信義       加賀美遠光      安田義定
 |
 ├---------┬-------┬----┬
武田信光      一条忠頼     有義   兼信
 |   
 ├---------┬---------┬
武田信政       一条信長      佐原義連

武田信義は、器量抜群、統率の才に勝れて、逸見、安田、加賀美等の諸将に推されて甲斐源氏の惣領職を継いだそうです。カリスマが有ったんでしょうね!

治承4(1180)年の富士川の戦い以降、甲斐源氏は源頼朝に付くか、木曽義仲に付くかで分裂。

源頼朝に接近
加賀美遠光(弟)、小笠原長清(遠光の次男)、石和信光(信義の子)

木曽義仲に接近
安田義定(弟)

このため、木曽義仲を追討後、頼朝に厚されたのは「加賀美遠光」でした。

武田信義(甲斐源氏)ゆかりの地

武田信義像(韮崎市役所)

▶ 山梨県韮崎市水神一丁目3番1号 | Pあり |

韮崎市にある武田八幡宮で元服し鎌倉幕府創設に貢献した甲斐源氏の総帥。地元の英雄という事でしょうか、市役所の入口に馬に乗った武田信義像が設置されています。

武田八幡宮(武田信義元服場所)

▶ 山梨県韮崎市神山町北宮地1185 | Pあり | バス停「武田八幡入口」下車、徒歩約5分

保延6(1140)年、武田信義13歳の時、武田八幡宮の社前において元服の式を挙げ、幼名の龍光丸から、武田太郎信義と改めました。

二の鳥居から総門前の石鳥居までは、電動自転車でも登るのが大変な急坂です。

武田信義館跡

▶ 山梨県韮崎市神山町556-2 | Pなし |

武田太郎信義が居館を立てた場所。
武田区の東端を占めて、約250㎡の広さ、現在は民家や耕地が入り混じってしまってますが、当時の土塁の一部が残り、お屋敷、お庭、的場、お堀、などなど、地名も伝わっています。

ちなみに、テニスコート(ダブル)の広さが約260㎡だそうです。

願成寺(武田信義公菩提寺)

▶ 山梨県韮崎市神山町1111 | Pあり |

武田信義公墓所

願成寺は武田信義公菩提寺ということで、境内の奥に武田信義公の墓があります。

わに塚のサクラ

▶ 山梨県韮崎市神山町北宮地624 | Pなし |

武田廣神社

▶ 山梨県韮崎市神山町武田 | Pあり |

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