平賀朝雅|北条時政と共に、実朝の代わりに鎌倉殿を目指した源氏門葉

平賀朝雅|北条時政と共に、実朝の代わりに鎌倉殿を目指した源氏門葉

2022-09-19

平賀朝雅(ひらが ともまさ)

生誕不詳-1205。武蔵守。
北条時政の後妻(牧の方)の娘婿。北条家内と対立して殺害された。平賀朝政とも。

上記の「幻の将軍(著:火坂雅志)」には、平賀朝雅についての小説が掲載されています。
牧の方にそそのかされて、その気になっていく平賀朝雅。面白いです。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、平賀朝雅役を「山中崇」さんが演じられます。

平賀朝雅の簡易年表

平賀朝雅が、最初に吾妻鏡に登場するのは正治2(1200)年2月26日。

源頼朝が亡くなり、御家人同士の勢力争いによる闘争が始まった時期でしたが、朝雅の将軍擁立を企んだ時政失脚(牧氏事件)でそうそうに姿を消します。

時期年齢出来事
不詳0誕生(父:平賀義信、母:比企尼の三女)
比企一族の母が死去。
建仁3(1203)年比企能員の変
北条氏側として比企氏討伐軍に加わる。
京都守護として、都に派遣
伊勢国・伊賀国の三日平氏の乱を山内首藤経俊に代わり鎮圧
元久元(1204)年京の邸宅で、上洛していた畠山重保と口論
元久2(1205)年畠山重忠の乱で、畠山重忠・重保親子が討伐される
北条時政が失脚(牧氏事件)
義時が山内首藤経俊の子に平賀朝雅の殺害を命令。

吾妻鏡より

源頼家の鶴岡八幡宮参詣に供奉する

頼朝が亡くなってから吾妻鏡に登場します。
源氏の流れを汲んでいることや、北条時政の一族であることからか、13人の合議制メンバーよりも名前が先に書かれていたりします。

正治2(1200)年2月26日

源頼家(中将家)が鶴岡八幡宮に参詣。頼朝の喪が明けてから初めての事。上宮で御経を供養された。

御出ましの供奉人

先陣の随兵10人 結城七郎朝光 三浦平六義村 ・・・ 北条頼時 北条時連 他
御剣役
御調度懸
・・
御後衆20人 相模守(大内)惟義 武蔵守(平賀)朝雅 (大江)中原広元  他

北条軍として比企一族討伐軍に

当然といえば当然ですが、平賀朝雅は北条時政の後妻「牧の方」の娘婿。
比企氏とは対立する立場にあります。

建仁3(1203)年 9月 2日

(省略)比企一族郎党らは一幡君の御館に立てこもった。
謀反の為、北条政子の命により平賀朝雅小山朝政畠山重忠三浦義村仁田常忠らが小御所へ襲来。
(省略)

京都守護として上洛

以前、北条時政が担っていた役職京都守護を、平賀朝雅が担当することになり上洛しました。
将軍に実朝を擁立し、北条時政が鎌倉と京都を抑え、着々と足固めをしている感じがしますね。

建仁3(1203)年10月3日

武蔵守(平賀)朝雅が京都警固のために上洛した。
西国に所領を持っている者は、朝雅と共に在京するようにと。

畠山重忠の乱へ繋がる諍い

有名な重保と朝雅の喧嘩ですが、牧の方が北条氏の後継として期待をかけていた北条政範が亡くなったことも重大事件。これで、牧の方は政範から朝雅へ期待の矛先を変えたのでしょうか?

元久元(1204)年11月20日

故北条政範(牧の方の子)の僮僕(どうぼく|召使)らが京都より鎌倉へ帰ってきた。去る6日に東山辺りに葬ったという。まだ、同4日、武蔵前司平賀朝雅の六角東洞院の邸宅で酒宴があった時に、平賀朝雅と畠山重保との口論があった。しかし同席の人々が宥め、何事もなく解散となった。

※六角東洞院は、今の六角堂の近くでしょうか?

平賀朝雅周辺の系図

平賀朝雅は、源氏の流れを汲みつつ、比企氏と北条氏とも姻戚関係に。
比企氏 vs 北条氏 の構図だった比企能員の乱では、妻方の北条氏側について、比企一族を滅ぼしています。

源盛義
 |
平賀義信=======比企尼の三女   北条時政====牧の方(継室)
 |     ┗-----┓            |
大内惟義        平賀朝雅========北条時政の娘

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

清和源氏からみた系図

平賀氏は、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の流れを汲んでいます。
新羅三郎義光とは、後三年の役で、清原家衡に対して苦戦する兄義家に加勢をした義家の弟(頼義の三男)

 |
源頼義(河内源氏
 ┣-----------┓
 義家          義光
 ┣-----┳     ┣-----┳------┳
 義親   義国     義業    義清     盛義
 |     |    (佐竹氏)   (甲斐源氏)   |
 為義   足利義康               平賀義信
 |     |                  ┣------┓
 義朝   足利義兼               大内惟義   平賀朝雅
 |     |
 頼朝   義氏

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

平賀朝雅ゆかりの地

東洞院通

烏丸通りから鴨川方面へ2本目の南北に走る通りが「東洞院通(ひがしとういんどおり)」。


洞院は天皇が退位した後の住居の意味だそうで、平賀朝雅が酒宴を行った場所、六角東洞院は六角通と東洞院通が交差する付近と考えられますね!

六角堂(頂法寺)

京都にある六角堂は、西国三十三所観音霊場の第18番札所の天台宗系単立の寺院。
華道の池坊の発祥の地です。

京都市中京区六角東洞院にあって、京での平賀朝雅の屋敷はこの付近にあったと考えられます。

小野城跡

三重県亀山市小野町にある城跡。
平家の残党(鎌倉幕府に敵対した若菜五郎)が、三日平氏の乱を起こし、平賀朝雅によって鎮圧。

城主がその若菜五郎という説があります。

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