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泉親衡(いずみ ちかひら)
1178?-1265?
信濃源氏の流れを汲む(嫡流)鎌倉幕府の御家人。和田合戦のきっかけとなった「泉親衡の乱」の首謀者。
泉親衡の簡易年表
源平合戦の時は、まだ若く、頼家・実朝時代の人物です。
目立った動きは、泉親衡の乱だけで、その後の50年近くは、逃亡・出家の生活を送ったとみられます。
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1178(治承2)年? | 0 | 誕生(父:泉公衡) |
1213(建暦3) | 36 | 泉親衡の乱 源頼家の遺児「千寿丸」を鎌倉殿に擁立し、執権北条氏の打倒を図る |
1265(文永2)年 | 88 | 死亡 |
吾妻鏡より
泉親衡は、吾妻鏡にたった2日しか出てきません。が、有名人ですね。
建保元(1213)年2月16日 (泉親衡の乱)
信濃国の住人「泉小次郎親平」が、故源頼家の若君で尾張中務丞が養育していた「栄実」を大将軍として北条義時を殺害しようと、一昨年より謀反を企て、下記の者達と語り合っていたが、前日に捕らえられた安念法師(謀反者たちの使者)が白状した事により、謀叛の者が諸所で生け捕られた。
和田義直(和田義盛の子)
和田義重(和田義盛の子)
渋河兼守(歌の橋ゆかりの人物)
和田胤長(和田義盛の甥)
宿屋重氏
市村近村
狩野小太郎他
その他にも、信濃国、越後国、下総国、伊勢国、上総広常の甥など、中心人物約130人、一味は二百人にも及ぶという。その身柄を捕らえて鎌倉へ進めるよう諸国の守護人に命じられた。
同年 3月2日
今回の謀反の首謀者である泉小次郎親平(衡)が、違橋(現、筋替橋)に隠れているとの噂があり、工藤十郎と遣わせたところ、泉親衡はすぐさま合戦を行い、工藤十郎と郎従数人を殺害して逃亡。
その逃げ道を塞ごうと鎌倉中が騒動したが、結局、泉親平(衡)の行方は分からなくなった。
泉親衡のその後
執権北条氏打倒の企てが事前に発覚した時、追手を討って逃亡、行方を晦ました。
鎌倉を退出後、諸国を転々とし、武蔵国三芳野(河越氏)の豊田源兵衛を頼り、千寿丸と共に出家。
名を「静海」と改め、そのまま88歳で没した(河越市最明寺縁起による)
泉親衡の系図
泉小次郎親衡は、信濃国(上田市小泉)の住人。祖先を辿れば「経基王」に行きつきます。
源経基(清和源氏)
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源満仲(嫡男) 源満快(5男)
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源頼信(河内源氏) 源満国
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源頼朝 泉親衡
泉親衡ゆかりの地
泉親衡ゆかりの地は、横浜市泉区の中でも、相鉄「いずみ中央」駅付近に固まっています。
徒歩圏内で巡れる範囲です。


長福寺(臨済宗円覚寺派)
泉(小次郎)親衡の創建道場。開山は大覚禅師(蘭渓道隆)の法弟「空山円印禅師」
※空山円印禅師は、建長寺西来庵塔主→円覚寺塔頭雲頂菴→浄妙寺住持
長福寺がある場所は横浜市泉区。
「泉区」という地名は、泉親衡と関係がありそうです。(そして、覚えやすいです)


馬洗いの池(泉中央公園内)
泉小次郎親衡が馬を洗ったと伝えられている池です。
長福寺から100mくらいしか離れていない「泉中央公園」の中にあります。


須賀神社
泉小次郎親衡が守護神として祀った神社。


滝前不動尊
泉小次郎親衡の守り本尊と言われている。
昔不動尊の左右に滝があったそうで「滝前」という名前が付いていると。

