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源頼家(みなもとのよりいえ)
1182-1204
鎌倉幕府第2代将軍。幼名は万寿。一時の重病時に家督を奪われ、伊豆修善寺にて殺害された。
乳母や妻が比企一族だったため、比企氏の台頭を恐れた北条氏によって比企氏は滅亡に追いやられました。
大河ドラマ「草燃える」では、郷ひろみさんが演じられました。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、金子大地さんが演じられます。
源頼家の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
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寿永元(1182)年 | 0 | 誕生(父:源頼朝、母:北条政子) |
建久4(1193)年 | 12 | 富士の巻狩り 弓の名手愛甲季隆の指導もあり、頼家が初めて鹿を射る |
建久5(1195)年 | 14 | 頼朝の上洛に頼家も伴う。北条政子と大姫も。 |
建久10(1199)年 | 18 | 父頼朝の急死により、家督を相続。第2代鎌倉殿。 |
十三人の合議制がしかれ、頼家の直訴訟裁断は停止 | ||
正治2(1200)年 | 19 | 梶原景時の変 景時が頼家に政務の復帰を願ったが叶わなかった。 |
建仁3(1203)年 | 22 | 比企能員の変 頼家の体調不良から、子一幡、弟千幡(実朝)に相続。 それに、比企氏が反抗し先手を打った北条氏に討たれる。 |
元久元(1204)年 | 23 | 伊豆修善寺にて北条氏の兵によって入浴中に襲われ死亡 |
源頼家周辺の系図
源義朝 北条時政 比企尼
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源頼朝=====北条政子 比企能員 安達盛長室 河越重頼室 平賀義信室
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源実朝 源頼家=====若狭局 他
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一幡 公暁 栄実 禅暁 竹御所=====藤原頼経
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
頼家の乳母、乳母父
頼朝の乳母父は、比企尼(頼朝の乳母)の養子「比企能員(鎌倉殿の13人の一人)」
乳母は、比企尼の次女(河越重頼室)、比企尼の三女(平賀義信室)、梶原景時の妻など。
頼朝の信頼厚い、比企尼を中心とした比企一族から選ばれています。
妻 若狭局
若狭局(讃岐局とも)は、比企能員の娘で、2代将軍頼家の側室(or 正室?)。
嫡子で長男の「一幡」と姫君「竹御所」?を産みました。
一幡君の誕生によって、比企一族は将軍家の外戚という強い関係になりましたが、それが元で北条氏の策略により、比企の乱で滅ぼされました。
頼家の子息たち
長男:一幡 比企能員の変で死亡
次男:公暁 叔父の実朝を鶴岡八幡宮で暗殺し、その後、自身も討ち取られる
三男:栄実 出家し栄西の弟子に。泉親衡の乱で大将軍として擁立される
四男:禅暁 公暁の実朝殺害に加担したとの嫌疑を受け、後に京の東山付近で殺害された
娘:竹御所 政子の死後には実質的な後継者に、第四代将軍「藤原頼経」に嫁ぎ、難産の末死去
源頼家ゆかりの地
段葛
段葛とは、寿永元(1182)年3月 頼朝の妻北条政子の安産(頼家の)を祈願して、北条時政ら御家人に命じ、若宮大路と共に造営した、若宮大路の中央に作られた参詣道。
妙本寺(鎌倉市)
▶ 鎌倉市大町1-15-1
寿永元(1182)年 8月12日 源頼家は鎌倉比企が谷の比企能員の屋敷で生まれました。
今は、その跡地に、比企能員の子比企能本(ひき よしもと)が建立した日蓮宗の妙本寺が建っています。
一幡之君袖塚(いちまんのきみそでづか)
2代将軍頼家の側室「若狭局」が産んだ嫡子一幡君。
建仁3年(1203)9月2日、比企の乱によって、一幡君の小御所も焼かれ、僅か6歳にて火中に命を終えられました。その焼け跡に残った一幡君の小袖を供養するため建てられたのが袖塚です。(妙本寺HPより)
源媄子(よしこ|竹御所)の墓
2代将軍頼家の側室「若狭局」が産んだとされる姫君「竹御所」
比企の乱で一族が滅ぼされ、生き残った媄子は、祖母 北条政子の死後、幕府の中で唯一、頼朝の血をひく者として御家人一同の尊敬を集め、彼らをまとめる役割を果たしました。
幕府は政権維持のため、京都から藤原頼経を迎え、4代将軍とし、媄子は4代将軍の奥方に。
懐妊しましたが死産で、本人も32歳で死去されました。(妙本寺HPより)
蛇苦止堂(じゃくしどう)
源頼家の側室「若狭局(讃岐局)」ゆかりの堂です。
妙本寺の方丈門(事務所へ上がる階段にかかる門)をくぐらずに、左側の道を歩いて行くと着きます。
比企能員の娘で2代将軍頼家公の側室「若狭局」は、比企氏の乱にてこの比企谷の地で火攻めに遭い、池(一説には井戸)に身を投げ死亡しました。
この乱より50年ほど後、北条政村の娘が何かに取憑かれて座敷をのたうち回り苦しみ、「北条家に恨みがある。わらわは若狭局(讃岐局)。今は蛇身を受け、比企谷の土中で苦しみを受けている」と語りました。
若狭局(讃岐局)の弟にあたる比企能本は日蓮聖人に救いを求め、日蓮聖人は、讃岐局の怨霊を法華経の功徳を以て成仏せしめ、蛇苦止明神と名付けて祀りました。(妙本寺HPより)
建仁寺(京都)
京都五山第三位の格式を誇った寺院。
建仁寺は建仁2(1202)年 鎌倉幕府2将軍「源頼家」が寺域を寄進、栄西禅師を開山として建立されました。正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)も入寺しています。
修善寺(伊豆)
修善寺温泉の周辺には鎌倉幕府ゆかりの人物の史跡が沢山あります。
また修善寺の瑞宝蔵(拝観300円|写真撮影禁止)で、源頼家の肖像画、頼家の仮面等を見ることができます。
岡本綺堂の修善寺物語は、修善寺に幽閉された源頼家の物語で必読です。
源頼家の墓
正治元(1199)年に二代将軍となった源頼家は、政変に敗れ、在位6年で修善寺に流された後、元久元(1204)年、祖父「北条時政」の手によって入浴中に暗殺された。
十三士の墓(源頼家家臣)
源頼家が暗殺された6日後、頼家の家臣らが謀反を企てるも、事前に察知されて殺された。
実際に13人なのか、十三塚(十三仏信仰が起源?)の一例なのかは分からない。
指月殿
源頼家の冥福を祈って、母「北条政子」が建立した、伊豆最古の木造建築。
指月とは経典の意味。「指月殿」の扁額は、一寧一山(宋の名僧)の書と言われている。
一寧一山は建長寺を再建、円覚寺、浄智寺の住職にもなった人物。
筥湯
源頼朝が入浴中に北条氏の刺客に襲われたとされる温泉。外湯として利用可能。
光照寺(伊豆の国市)
静岡県伊豆の国市にある光照寺は、源頼朝の宿館と推定される寺です。
伊豆に幽閉された2代将軍「源頼家」が、病気と政変で自分の様子を、母の北条政子に知らせるために作られたとされています。北条政子に面が届く前に、源頼家が無くなったために寺にあるようです(寺宝)
※このお寺は観光寺ではありませんと書かれていました。