源頼朝の挙兵に従い、鎌倉幕府の初代侍所別当に任じられた和田義盛。
三浦一族の有力武士として頼朝を支え、幕府創設期から活躍した「鎌倉殿の13人」の一人です。
しかし頼朝亡き後、北条氏が幕府内で力を強めていくなか、義盛は次第に追い詰められていきます。そして建暦3年(1213)、ついに北条義時と激突。鎌倉を戦場とする和田合戦へ。
本記事では、和田義盛の生涯を三浦一族との関係から和田合戦までたどり、鎌倉・三浦半島に残るゆかりの地も紹介します。
和田義盛(わだ よしもり)とは?
和田義盛(わだ よしもり)は、源頼朝の挙兵に従い、鎌倉幕府の成立を支えた有力御家人です。
久安3年(1147)に三浦義明の孫として生まれ、父は杉本義宗。
三浦一族の出身ですが、相模国三浦郡和田を領したことから「和田」を名乗りました。
弓の名手としても知られ、頼朝のもとでは御家人を統率する侍所の初代別当に任じられます。
頼朝の死後も幕府の重臣として生き残り、十三人の合議制にも名を連ねました。
しかし、北条氏が幕府内で勢力を拡大していくなかで、やがて執権・北条義時と対立。建暦3年(1213)の和田合戦で一族とともに滅亡します。
源頼朝と和田義盛のやり取りで出てくる「千貫松」と江ノ島&富士山😊
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) August 4, 2021
頼朝公御賞賛って書いてますね!
夕方や冬場はもっと綺麗に見えそう。#森戸神社 #葉山 pic.twitter.com/v3OE4Djhda
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、横田栄司さんが演じられました。
和田義盛の簡易年表
| 年代 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 久安3(1147)年 | 0 | 杉本義宗(三浦義明長男)の子として誕生 |
| 治承4(1180)年 | 34 | 頼朝の挙兵 従兄弟「三浦義澄」らとともに三浦半島を出立 小坪合戦→衣笠城合戦 |
| 元暦元(1184)年 | 38 | 平家追討のため、源範頼の軍奉行として従軍 |
| 文治5(1189)年 | 43 | 奥州合戦に従軍 |
| 建久元(1190)年 | 44 | 頼朝の上洛で先陣を賜る |
| 建久3(1192)年 | 46 | 侍所別当職を梶原景時に奪われる |
| 建久十(1199)年 | 53 | 十三人の合議制に列する 梶原景時の変で侍所別当職に復職 |
| 建仁3(1203)年 | 56 | 比企能員の変で、比企氏討伐に加わる |
| 元久2(1205)年 | 58 | 畠山重忠の乱。北条側の大将軍として出陣 |
| 建暦3(1213)年 | 67 | 泉親衡の乱。和田義盛の子らが関与していたことが判明 和田合戦にて、三浦義村に裏切られ敗死 |
三浦一族から生まれた和田氏
和田義盛は「和田氏」という名字から別の一族のようにも見えますが、その出自は相模国を代表する武士団・三浦一族。祖父の三浦義明から、父・杉本義宗、そして義盛へとつながります。
義盛は相模国三浦郡和田を領有したことから和田氏を名乗り、その子孫も和田氏として発展していきました。
一方、本家にあたる三浦氏とはその後も深い関係を持ち続けます。
三浦一族の系図
元々、長男筋だった義盛ですが、父「杉本義宗(1126-1164)」が三浦の家督を継ぐ前に亡くなってしまったため、三浦嫡流の家督が弟の三浦義澄に渡りました。

👥 系図に登場する人物
- 👤 三浦義澄を詳しく見る
- 👤 三浦義村を詳しく見る
- 👤 佐原義連を詳しく見る
- 👤 源義朝を詳しく見る
- 👤 悪源太義平を詳しく見る
- 👤 畠山重忠を詳しく見る
三浦義明は子だくさんで戦略家でもあり、娘を有名御家人に嫁がせたりしているため、源頼朝の異母兄である悪源太義平や畠山重忠が従兄弟になります。
和田義盛周辺の系図
和田義盛の父「杉本義宗」には、下記系図以外にも子供がいますが、あまり情報(記録)が無いようです。

👥 系図に登場する人物
- 👤 和田朝盛を詳しく見る
- 👤 朝比奈義秀を詳しく見る
- 👤 和田義茂を詳しく見る
杉本義宗
├------------------┬----┬-----┬
和田義盛 義長 義茂 宗実
├---------┬---┬ | | |
常盛 朝比奈義秀 義直 義重 胤長 高井氏 中条氏
| └--┬--┘
和田朝盛 越後和田氏
義直、義重、胤長は「泉親衡の乱」の首謀者。
その後の和田合戦で、和田一族はことごとく死亡。
義盛の孫「朝盛」は和田合戦で敗れるも運よく生き延びたが、承久の乱で後鳥羽上皇方に捕縛され、その後の動向は不明となっています。
また、義盛の弟で頼朝家子の和田義茂の子「高井重茂」は、和田合戦で鎌倉幕府方として戦い、その子孫が越後和田氏として続きます。
父・杉本義宗(すぎもと よしむね)
杉本義宗は三浦半島から出て、鎌倉郡杉本郷に住んで「杉本城(現杉本寺)」を築城しました。
三浦一族の中でも、長男筋だった義宗系統は、北西の鎌倉や南の和田等、三浦の領地を開拓してく役目を担っていたのかもしれません。
弟・和田義茂(わだ よしもち)
杉本義宗が亡くなると、長男の和田義盛は和田郷に拠点を構え、次男の義茂が杉本城へ入城しました。
なお、弓の名手だったため、和田義茂は源頼朝の家子(寝所警護)に選ばれています。
ちなみに三浦一族では、三浦義連(叔父)も家子に選ばれています。
相模国三浦郡和田の里
現在の三浦市初声町和田の範囲です。
広大な台地にキャベツ畑やらスイカ畑やら、のどかな風景が広がる和田。
和田義盛ゆかりの史跡や神社仏閣を巡るのも良いですけど、この和田の空間を感じてもらいたいです。

源頼朝を支えた和田義盛
治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げます。
石橋山の戦いに敗れた頼朝は安房へ逃れ、そこで房総半島の武士たちを味方につけながら勢力を立て直しました。三浦一族も頼朝軍に合流し、和田義盛もその一員として鎌倉幕府成立への道を歩み始めます。
その後、義盛は源平合戦を通じて頼朝に仕え、幕府草創期を代表する御家人へと成長していきました。
鎌倉幕府初代侍所別当へ
頼朝の信頼を得た義盛は、御家人たちを統率する侍所の初代別当に任じられました。
侍所は、鎌倉幕府における軍事・警察を担う重要な機関です。
つまり義盛は単なる武勇に優れた武士ではなく、成立したばかりの頼朝政権で御家人たちを束ねる立場を任された人物でした。
その後、一時は梶原景時が侍所別当となりますが、義盛は再びその職に復帰しています。
頼朝が建久元年(1190)に上洛した際にも供奉しており、幕府の有力御家人として重要な位置を占め続けました。
「鎌倉殿の13人」の一人
建久10年(1199)、源頼朝が死去。
跡を継いだ二代将軍・源頼家を支えるために設けられた、いわゆる「十三人の合議制」に和田義盛も加わりました。
北条時政・北条義時、梶原景時、比企能員、三浦義澄など、頼朝時代から幕府を支えてきた有力者たちと並んで義盛も名を連ねています。
ところが頼朝という絶対的な存在を失った幕府では、御家人同士の権力争いが次第に激しくなっていきます。義盛自身も、梶原景時の変や比企能員の変など、幕府を揺るがす政変を経験しました。
そして最後に待っていたのが、北条義時との直接対決でした。
北条義時との対立と和田合戦
頼朝亡き後、鎌倉幕府では有力御家人が次々と政治の表舞台から姿を消していきました。
その一方で勢力を拡大していったのが北条氏です。
長年にわたって幕府を支えてきた和田義盛も、やがて北条義時と対立することになります。
その直接のきっかけとなったのが、建暦3年(1213)に発覚した泉親衡の乱でした。
泉親衡の乱と和田一族
泉親衡は、源頼家の遺児・千寿丸を擁立して北条義時を倒そうとする計画を企てたとされています。計画は事前に発覚しますが、問題はここからでした。
義盛の子・義直、義重、さらに甥の胤長らが事件への関与を疑われたのです。
義盛は一族の赦免を求め、息子たちは許されます。しかし、甥の胤長については許されませんでした。
さらに胤長の屋敷をめぐる問題も重なり、義盛と義時の関係は急速に悪化していきます。
長年幕府に仕えてきた老将と、幕府の実権を握りつつあった執権。
両者の対立は、ついに武力衝突へと発展します。
1213年、和田合戦
建暦3年(1213)5月、和田義盛は一族を率いて挙兵しました。
戦場となったのは、ほかでもない鎌倉の中心部です。
和田勢は将軍御所周辺などで幕府軍と激しく戦い、一時は鎌倉の市街を巻き込む大規模な戦闘となりました。しかし戦いが長引くにつれ、幕府側が優勢となっていきます。
そして翌日、和田勢は次第に追い詰められていきました。
和田義盛の最期
激戦のなか、義盛の息子・義直が討死。息子の死を知った義盛も深い悲しみに暮れたと伝えられ、その後、義盛自身も討ち取られました。
享年67。
頼朝の挙兵以来、三十年以上にわたって鎌倉幕府を支えてきた老将の最期でした。
和田合戦によって和田氏は大きな打撃を受け、北条義時の幕府内での立場はさらに強固になっていきます。
しかし、義盛の一族すべてが歴史から消えたわけではありません。三浦氏をはじめ、和田氏につながる人々の歴史はその後も続いていきます。
そして現在も鎌倉や三浦半島には、和田義盛が生きた痕跡が各地に残されています。
和田義盛ゆかりの地
三浦市には和田義盛の名前の由来にもなっている「初声町和田」という住所があり、「和田」という交差点もあります。この付近を中心に和田義盛ゆかりの史跡が点在しています。

京急「三崎口駅」から約2km。バスだと5分程度です。
和田義盛之碑(三浦市初声町和田)
和田交差点を鎌倉方面を前に左折すると100mくらいに「八雲神社」がありまして、その境内の中に和田義盛の碑が建っています。
三浦大介義明の孫で、武勇はことのほか優れ、弓矢にかけてはこの右に出る物がないほどと書かれています。
確かに「吾妻鏡」でも弓に関する内容では義盛が頻出します。


和田城址
和田義盛の居館が有ったとされる場所に建っています。
八雲神社からは少し遠く、分かりにくい場所に設置されています。
三浦YMCA経由で和田城址に向かうと、三浦半島の広大な台地&畑を歩けますので和田郷の雰囲気を掴めると思います。


天養院
天養院は和田義盛ゆかりのお寺。
和田義盛の館の鬼門の鎮護として建立したと書かれています。
このお寺の本尊が「和田義盛の身代わり薬師」と言われているようです。


白旗神社
上記、天養院の近くにあります。本殿に行くまでにはかなり急な階段を登らないといけませんが・・・。
ココの説明板には、町名の「初声町」の由来が書かれています。
由来は、文治2(1186)年平家討伐の時期に遡ります。


来福寺(三浦市南下浦町)
来福寺は和田義盛の菩提寺です。
ですが、初声町和田にはありません。少し離れた南下浦町にあります。
というのも、元々は鎌倉名越(現大町)にあったものを、三浦市和田に移して、さらにここに移ってきたようです。移った理由は良く分かりませんけど、戦火とか、土地開発とかでしょうか?


菩提寺と言うこともあって、寺宝には和田義盛所持の鏡等多く所蔵されているみたいです。
浄楽寺
横須賀市芦名の地にある浄楽寺、開基が和田義盛です。
芦名は三浦一族芦名氏の拠点となった場所。和田義盛と同じく三浦氏の分家です。
芦名は三浦半島の西側で海の向こうに富士山が見え、阿弥陀浄土に例えられる場所。なので、寺院建立地としてえらばれたのではないか?と説明板には書かれています。


ちなみに、この寺院は「日本郵便の父 前島密の墓」があることで有名です。
ミニ漫画で読む和田義盛
源頼朝の挙兵にいち早く加わり、鎌倉幕府の初代侍所別当となった和田義盛。頼朝亡き後も幕府を支え続けますが、やがて北条義時との対立を深め、和田合戦へと向かいます。
三浦一族の武将として生まれ、幕府の重鎮となり、最後は一族を率いて戦った義盛の生涯を、8コマのミニ漫画でたどってみましょう。

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🥇 和田義盛を「三浦一族」から読み解く一冊
和田義盛は、鎌倉幕府初代侍所別当として知られる一方、三浦一族につながる有力武士でもありました。
義盛個人の生涯だけでなく、三浦氏・和田氏の系譜や、鎌倉幕府の中で一族がどのように勢力を築いていったのかを知りたい人におすすめの一冊です。
🥈 史料から鎌倉時代を読み解くなら
テーマをさらに深く知りたい方へ。
鎌倉時代の歴史を史実に基づいて知ると、また新たな発見があります。
🥉 NHK大河ドラマで鑑賞
和田義盛は横田栄司さんが演じ、豪快で人情味あふれる坂東武者として存在感を放っています。
義盛だけでなく、源頼朝・北条義時・三浦義村など、鎌倉幕府を支えた御家人たちの人間関係や、その後の和田合戦までまとめて楽しみたい人におすすめです。

