目次
和田義盛(わだ よしもり)
1147-1213。三浦一族の庶流で、鎌倉幕府の初代政所別当。
和田小太郎、和田小太郎義盛、和田左衛門尉義盛と書かれることも。
源頼朝と和田義盛のやり取りで出てくる「千貫松」と江ノ島&富士山😊
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) August 4, 2021
頼朝公御賞賛って書いてますね!
夕方や冬場はもっと綺麗に見えそう。#森戸神社 #葉山 pic.twitter.com/v3OE4Djhda
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、横田栄司さんが演じられます。
和田義盛の簡易年表
年代 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
久安3(1147)年 | 0 | 杉本義宗(三浦義明長男)の子として誕生 |
治承4(1180)年 | 34 | 頼朝の挙兵 従兄弟「三浦義澄」らとともに三浦半島を出立 小坪合戦→衣笠城合戦 |
元暦元(1184)年 | 38 | 平家追討のため、源範頼の軍奉行として従軍 |
文治5(1189)年 | 43 | 奥州合戦に従軍 |
建久元(1190)年 | 44 | 頼朝の上洛で先陣を賜る |
建久3(1192)年 | 46 | 侍所別当職を梶原景時に奪われる |
建久十(1199)年 | 53 | 十三人の合議制に列する 梶原景時の変で侍所別当職に復職 |
建仁3(1203)年 | 56 | 比企能員の変で、比企氏討伐に加わる |
元久2(1205)年 | 58 | 畠山重忠の乱。北条側の大将軍として出陣 |
建暦3(1213)年 | 67 | 泉親衡の乱。和田義盛の子らが関与していたことが判明 和田合戦にて、三浦義村に裏切られ敗死 |
三浦一族の系図
和田義盛は、三浦と名乗っていませんが、れっきとした三浦一族です。
元々、長男筋だったのですが、父「杉本義宗(1126-1164)」が三浦の家督を継ぐ前に亡くなってしまったため、三浦嫡流の家督が弟の三浦義澄に渡りました。
|
三浦義明(1092)
├---------┬---------┬------┬--------┬
杉本義宗(1126) 三浦義澄(1127) 佐原義連 (?) 源義朝室 畠山重能室
| | | |
和田義盛(1147) 三浦義村(1168) 悪源太義平(1141) 畠山重忠(1164)
|
朝比奈義秀(1176)
和田義盛は、相模国三浦郡和田の里を領し、和田姓を名乗りました。
三浦義明は子だくさんで戦略家でもあり、娘を有名御家人に嫁がせたりしているため、源頼朝の異母兄である悪源太義平や畠山重忠が従兄弟になります。
和田義盛周辺の系図
和田義盛の父「杉本義宗」には、下記系図以外にも子供がいますが、あまり情報(記録)が無いようです。
杉本義宗
├------------------┬----┬-----┬
和田義盛 義長 義茂 宗実
├---------┬---┬ | | |
常盛 朝比奈義秀 義直 義重 胤長 高井氏 中条氏
| └--┬--┘
和田朝盛 越後和田氏
義直、義重、胤長は「泉親衡の乱」の首謀者。
その後の和田合戦で、和田一族はことごとく死亡。
義盛の孫「朝盛」は和田合戦で敗れるも運よく生き延びたが、承久の乱で後鳥羽上皇方に捕縛され、その後の動向は不明となっています。
また、義盛の弟で頼朝家子の和田義茂の子「高井重茂」は、和田合戦で鎌倉幕府方として戦い、その子孫が越後和田氏として続きます。
父・杉本義宗(すぎもと よしむね)
杉本義宗は三浦半島から出て、鎌倉郡杉本郷に住んで「杉本城(現杉本寺)」を築城しました。
三浦一族の中でも、長男筋だった義宗系統は、北西の鎌倉や南の和田等、三浦の領地を開拓してく役目を担っていたのかもしれません。
弟・和田義茂(わだ よしもち)
杉本義宗が亡くなると、長男の和田義盛は和田郷に拠点を構え、次男の義茂が杉本城へ入城しました。
なお、弓の名手だったため、和田義茂は源頼朝の家子(寝所警護)に選ばれています。
ちなみに三浦一族では、三浦義連(叔父)も家子に選ばれています。
相模国三浦郡和田の里
現在の三浦市初声町和田の範囲です。
広大な台地にキャベツ畑やらスイカ畑やら、のどかな風景が広がる和田。
和田義盛ゆかりの史跡や神社仏閣を巡るのも良いですけど、この和田の空間を感じてもらいたいです。
和田義盛ゆかりの地
三浦市には和田義盛の名前の由来にもなっている「初声町和田」という住所があり、「和田」という交差点もあります。この付近を中心に和田義盛ゆかりの史跡が点在しています。
京急「三崎口駅」から約2km。バスだと5分程度です。
和田義盛之碑(三浦市初声町和田)
和田交差点を鎌倉方面を前に左折すると100mくらいに「八雲神社」がありまして、その境内の中に和田義盛の碑が建っています。
三浦大介義明の孫で、武勇はことのほか優れ、弓矢にかけてはこの右に出る物がないほどと書かれています。
確かに「吾妻鏡」でも弓に関する内容では義盛が頻出します。
和田城址
和田義盛の居館が有ったとされる場所に建っています。
八雲神社からは少し遠く、分かりにくい場所に設置されています。
三浦YMCA経由で和田城址に向かうと、三浦半島の広大な台地&畑を歩けますので和田郷の雰囲気を掴めると思います。
天養院
天養院は和田義盛ゆかりのお寺。
和田義盛の館の鬼門の鎮護として建立したと書かれています。
このお寺の本尊が「和田義盛の身代わり薬師」と言われているようです。
白旗神社
上記、天養院の近くにあります。本殿に行くまでにはかなり急な階段を登らないといけませんが・・・。
ココの説明板には、町名の「初声町」の由来が書かれています。
由来は、文治2(1186)年平家討伐の時期に遡ります。
来福寺(三浦市南下浦町)
来福寺は和田義盛の菩提寺です。
ですが、初声町和田にはありません。少し離れた南下浦町にあります。
というのも、元々は鎌倉名越(現大町)にあったものを、三浦市和田に移して、さらにここに移ってきたようです。移った理由は良く分かりませんけど、戦火とか、土地開発とかでしょうか?
菩提寺と言うこともあって、寺宝には和田義盛所持の鏡等多く所蔵されているみたいです。
浄楽寺
横須賀市芦名の地にある浄楽寺、開基が和田義盛です。
芦名は三浦一族芦名氏の拠点となった場所。和田義盛と同じく三浦氏の分家です。
芦名は三浦半島の西側で海の向こうに富士山が見え、阿弥陀浄土に例えられる場所。なので、寺院建立地としてえらばれたのではないか?と説明板には書かれています。
ちなみに、この寺院は「日本郵便の父 前島密の墓」があることで有名です。