今回は、鎌倉五山第五位で有名な「浄妙寺」のちょっと奥まったところにある、鎌足稲荷神社をご紹介します。浄妙寺には何回も行ってますが、全く気づきませんでした・・・
鎌足稲荷神社(かまたり いなり じんじゃ)
鎌足稲荷神社へのアクセス
鎌足稲荷神社へ行くには、浄妙寺の山門をくぐらずに、浄妙寺の右側を本堂側(山側)へ歩いて行きます。
すると、右側へ上る石段が見つかりますので、それを登ります。
鎌足稲荷神社への石段は、加工しやすい鎌倉石で作られているため、今までいろんな人が歩いてかなりすり減っています。特に下り場合は滑りやすいですから、手すりを持って慎重に。
鎌足稲荷神社の境内
浄妙寺からほど近い場所なんですけど、木々に囲まれて静かな場所です。
鎌足稲荷神社は、いろんな町にポツンとある小さな祠のような稲荷神社。
ただ、なかなかの有名人が関与している稲荷神社のようです。鎌足ってあの藤原鎌足ですからね!
この鎌足稲荷神社の説明板の下の方に、
鎌倉の地名は、鎌足公が鎌を埋納したことによるとされています。と書かれています。
あの大化の改新の主人公「藤原鎌足」が、鹿島神宮へ行く途中に鎌倉(由比ガ浜)に泊ったなんて。
今朝は浄妙寺の奥にある鎌足稲荷神社へ。
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) October 16, 2020
あの大化の改新を起こした藤原鎌足が鎌倉に来てたとは😊
鎌足の鎌が鎌倉の鎌。ヤヤコシイナ。#鎌倉 #鎌足稲荷神社 pic.twitter.com/RHLVNgSLTd
鎌足稲荷神社の奥は行けないように、規制線(ロープ)が張られていますが、やぐらのようなものが見えますね。
ただ、人気も無くて静かで、木々に囲まれて薄暗いので、あまりウロチョロしたくはないですが・・・。
ちなみに浄妙寺には藤原鎌足像が祀られているようです。
多くの鎌倉のガイドブックには掲載していない場所ですけど、鎌倉の地名の由来の一つになった場所ですから、浄妙寺に行ったついでに寄ってみると面白いと思います。
藤原(中臣)鎌足の伝承
藤原(中臣)鎌足は中大兄皇子の信頼を得て共に、宮中(飛鳥板蓋宮)で専横著しい蘇我入鹿を討ち、翌日蘇我蝦夷が自邸に火を放ち自害して蘇我本宗家が滅亡した「乙巳の変」において活躍した有名な人臣です。
鎌倉にもすこしゆかりがあるようなので、少しだけ深堀してみます。
鎌足の出生地について
飛鳥時代に活躍した藤原鎌足の出生地は2つの説があります。
一つが現在の明日香村(根拠:藤氏家伝)にある「大原神社」。近くには産湯の井戸と伝わる場所も残されています。そして、その近くには鎌足の母「大伴夫人の墓」と伝わる場所もあります。
もう一つが常陸国鹿島(根拠:大鏡)です。
ここに武甕槌大神を祀る鹿島神宮がある場所で、藤原氏の氏神「春日神」を祀っている奈良にある「春日大社」の4柱のうち1柱が武甕槌命と同じ神様。ゆかりがあっても全くおかしくありません。
ちなみに、鎌足稲荷神社へは藤原氏にとって大切な「鹿島神宮」への道中に立ち寄ったということですね。
藤原鎌足の系図
中臣鎌足は天智天皇から藤原姓を頂くまで名乗っていた名前。
そして、藤原姓を頂いたは死去の直前(前日?)ということなので、ほとんど中臣鎌足として活動していたことになります。
妻は鏡王女。子供にはこれまた有名な藤原不比等がいます。
中臣御食子=====大伴智仙娘
|
中臣鎌足=====鏡王女 他
┣----┳-------┳
定恵 藤原不比等 |
| (玄孫まで下る)
藤原四兄弟 |
染谷時忠(由比の長者)
|
良弁(東大寺開山)
そして鎌倉ネタとしては、飛鳥・奈良時代にかけて由比の長者として知られる「染谷時忠」が、石碑の説明によると藤原鎌足の玄孫と伝わっているようです。
妻:鏡大王(かがみのおおきみ)について
中臣鎌足の妻である鏡大王は、以前「中大兄皇子(後の天智天皇)」の妻だったようです。
近江国野洲郡鏡里にいた豪族「鏡王」の娘で、あの天才女流歌人「額田王」の姉にあたるとされています。
鏡大王は夫鎌足の病気平癒を願い、興福寺の前身「山階寺(京都市山科区)」を建立した人物です。天智天皇は大津京に居ましたから、そこに近い場所にお寺を建てたようですね。
墓地は桜井市忍坂。舒明天皇(天智天皇・天武天皇の父)と大伴皇女墓(推古天皇の姉妹)の近くにあります。
「藤氏家伝」:藤原鎌足、定恵、不比等(ただし現存せず)の伝記、著は藤原仲麻呂(恵美押勝)
「多武峰縁起絵巻」:多武峯談山神社の縁起絵巻
「大鏡」:紀伝体の歴史物語、平安時代の後期に成立