今回は稲村ケ崎にある石碑を読んでみました。
稲村ガ崎からは、七里ヶ浜と江ノ島と富士山と夕日が見られる、鎌倉随一のデートスポット。
でも、鎌倉幕府が滅ぶきっかけとなった運命の地でした。
目次
稲村崎(いなむらがさき)
「稲村崎」石碑の場所
石碑に書かれている文字は?
今ヲ距ル五百八十四年ノ昔元弘三年五月二十一日
新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ鎌倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ禱レリ
ト言フハ此ノ處ナリ
大正六年三月建之 鎌倉町青年會
今より遡ること584年(大正6年から)の昔、1333年(元弘3年)5月21日
新田義貞はこの岬を回って鎌倉に潜入したと伝わるが、金で装飾された刀を海に投げて海水(潮)を退けるようにと海神に祈った伝わるのは、この場所である。
大正6年3月建之 鎌倉町青年会
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
禱:現在の「祈」
事前知識(歴史編)
新田義貞
1301頃-1338年。鎌倉時代後期の御家人、武将。源義貞。
新田義貞については下記のページで詳しく記載しています。
今は、稲村ケ崎の前に山を掘って作った国道134号線が通ってますが、鎌倉時代にそんな道路はありません。
鎌倉中心地へ行くには、極楽寺坂の切通しか、稲村ケ崎を海側から回っていくしかなかったんですよね。
そんなことを想像しながら稲村ケ崎に立つと、単純に「景色奇麗だねー」だけじゃない複雑な思いが頭を巡りますね。