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聖福寺阯
今回は稲村ケ崎の僻地にある石碑をようやく発見したので、足を運んできました。
「聖福寺阯」石碑の場所
聖福寺阯の石碑の場所は、稲村が﨑といっても海側ではなくて鎌倉山側。正福寺公園の東側入口にあります。
この手の石碑って、鎌倉駅~長谷駅周辺に多いので、ここまで目が届きませんでした・・・。
ここら辺は、区画が奇麗なので、七里ヶ浜の住宅街が整備されたときに出来たのでしょうか?
石碑に書かれている文字は?
聖福寺ハ建長六年(紀元一九一四年)四月関東ノ長久並ニ北條時頼ノ息 時輔(幼名 聖寿丸)時宗(幼名 福寿丸)ノ息災延命ノ為建立セシモノニシテ、其ノ寺号ハ両息ノ名字ニ因ミシモノト伝ヘラルルモ、廃寺ノ年代詳ナラズ。此谷ヲ正福寺谷ト呼ブ
昭和九年三月 鎌倉町青年團建
聖福寺は建長6年(紀元1914年)4月、関東の長い繁栄と、北条時頼の子供である、時輔(幼名 聖寿丸)と時宗(幼名 福寿丸)が元気で長生きすることを願い建立されたものとされている。その寺号は二人の子供の名前にちなんだものと伝えられるが、廃寺の年代等詳しいことは分かっていない。この辺の谷の事を正福寺谷と呼ぶ。
昭和9年3月 鎌倉町青年団建
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
長久:長く続くこと、永久。
事前知識(歴史編)
建長6年
1254年。宝治-建長-康元。
天皇は後深草天皇(89代)、将軍は宗尊親王(6代)、執権は北条時頼(5代)
北条時頼
1227-1263。鎌倉幕府5代執権。建長寺を建立。出家後は最明寺殿と呼ばれました。
北条時輔
1248-1272。北条時頼の長男で庶長子(正室ではない子)、8代執権「北条時宗」の異母兄。
六波羅探題南方を務め、二月騒動(1272年)で謀反の疑いを受け北条時宗(弟)により誅殺。
北条時宗
1251-1284。北条時頼の正室(堀内殿|安達義景の娘)の子。安達氏の甘縄邸に生まれる。
鎌倉幕府8代執権。蒙古襲来で2度もモンゴル帝国(元)を退ける。
聖福寺 その他
聖福寺は、1333年の鎌倉攻めで新田義貞が陣を張った場所らしいです。
Googleマップで新しい石碑を見つけたので稲村ヶ崎の奥まで😊
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) December 23, 2020
ココは聖福寺跡で北条得宗家ゆかりのお寺っぽいです。
でもこんな場所見つけられないよー。#鎌倉 #稲村ヶ崎 pic.twitter.com/FWrEBSGt9h
と言うことは、もうちょっと南(稲村ケ崎側)にあったのを、この地に移設したのでしょうか?