十一人塚|1333年壮絶な極楽寺坂の戦い、討幕軍の英魂が眠る場所(石碑を読む)

十一人塚|1333年壮絶な極楽寺坂の戦い、討幕軍の英魂が眠る場所(石碑を読む)

2020-06-16

今回は稲村ケ崎からほど近い場所にある「十一人塚」の石碑を読んでみました。
鎌倉幕府滅亡への足掛かりとなった極楽寺口の戦いの一部の記憶です。

十一人塚

「十一人塚」石碑の場所

石碑に書かれている文字は?

十一人塚碑 田邊松披撰弁書
元弘三年五月十九日 新田勢大館又次郎宗氏ヲ将トシテ極楽寺口ヨリ鎌倉ニ攻入ラントセシニ敵中本間山城左衛門手兵ヲ率イテ大館ノ本陣ニ込ミ為メニ宗氏主従十一人戦死セリ
即遺骸ヲメ十一面観音ノ像ヲ建テ以テ其ノ英魂ヲ弔シ 之ヲ十一人塚ト称セシト伝フ

昭和六年三月 鎌倉町青年團

十一人塚 田邊松披撰弁書

1333年(元弘三年)5月19日
新田勢は大館宗氏を大将として極楽寺口から鎌倉に攻め入ろうとしていた時に、敵(鎌倉幕府軍)の本間山城左衛門が兵を率いて大館宗氏の本陣に斬り込んできたため、宗氏含め十一人が戦死した
そこで、遺骨をここに埋葬し十一面観音像を立てて、その英魂を弔った
それゆえ、十一人塚と言うと伝わっている

昭和6年3月 鎌倉町青年団

※間違ってたらごめんなさい。

事前知識(漢字・用語編)

:きる、おのでたちきる。
:ここ|この場所、この時。
:エイ|うめる、埋葬する。

事前知識(歴史編)

田邊松披

明治~昭和初期、鎌倉に住んだ現鎌倉女学院を設立した教育者。漢学者。
鎌倉同人会が市内に建てた史跡碑の碑文を撰した(文章を作った)。

大館又次郎宗氏

1288-1333年。鎌倉末期の武将。新田氏の支族。
改名に又次郎。なので、一般的には大舘宗氏と呼ばれる。

本間山城左衛門

本間氏は大仏流北条氏の被官。上記の大舘宗氏を討ったのはこの本間山城左衛門。

太平記には下記のような事が書かれてます。(緩く書いてます)

上司の大仏流北条氏大仏貞直|おさらぎさだなお)に、可愛がられていたけど、ちょっとした誤解?で蟄居謹慎処分になっていた本間山城左衛門。

でも、極楽寺坂での戦いで苦境を知ると、蟄居謹慎なのに駈けつけて、誤解を解こうと頑張って、死に物狂いで戦い、敵将の「大舘宗氏」を討ち取ってしまった。

首をもって上司の大仏貞直のところで、「これで誤解が解ければ嬉しいです!」
と言って、自害したと。(勝手に参戦しましたからね・・・)

とまあ、なんともカッコいい?人物な訳です。
あとが無い、やるしかない、っていう人はどこに行っても強いですね。

ウィキペディアにも載らないような人物が鎌倉市の石碑に名前が刻まれているんですから、実際に現地に足を運んでいろいろ見るっていうのは、それだけでいい歴史勉強になりますね。

極楽寺坂での戦い

1333年の鎌倉攻めの中でも、この極楽寺坂での戦いでの敗北が決定打だったようですね。

極楽寺坂にある石碑にも、この十一人塚と同じような内容が書かれていますので、一緒に読むとさらに理解が深まりますよ。

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十一人塚はそんなことから、鎌倉の心霊スポットの一つと言われています。
というか、鎌倉は心霊スポットだらけなんですけどね(汗)。

墓石に「大館又次郎」の文字が見えますね。
鎌倉や歴史に興味持ってから、石に刻まれた文字や卒塔婆に書かれた文字を見るようになりました。

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