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万葉集研究遺跡(妙本寺境内)
今回は妙本寺境内にある「万葉集研究遺跡」の石碑を呼んでみました。
比企氏の出身と言われている、天台宗の学問僧「仙覚律師」が生涯をかけて完成させた万葉集注釈(校本と注釈)。万葉集研究の世界では仙覚は超重要人物なのです。
また、武士の都と思われている鎌倉も、摂家将軍・親王将軍が京から下向してくる時代になると、和歌や文学なんかも流行っていたことにも注目ですね!
「万葉集研究遺跡」石碑の場所
妙本寺の境内奥、大きな祖師堂の左側に建っています。
石碑の奥には階段があり、登ると檀家さんの墓所と思われる平場があり、その最奥に竹御所の墓所があります。
この平場が新釈迦堂が建っていた場所と思われます。
石碑に書かれている文字は?
此地ハ比企谷新釈迦堂 即将軍源頼家ノ女ニテ将軍藤原頼経ノ室ナル竹御所夫人ノ廟ノアリシ處ニテ 當堂ノ共僧ナル権律師仙覚ガ萬葉集研究ノ偉業ヲ遂ゲシハ實ニ其僧坊ナリ 今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ適ニ堂ノ須弥壇ノ直下ニ當レリ 堂ハ恐ラクハ南面シ僧坊ハ疑ハクハ西面シタリケム 西方崖下ノ窟ハ仙覺等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ 迷シクハ萬葉集新考附録萬葉雑致ニ言へリ
昭和五年二月 宮中顧問官井上通泰撰 菅虎雄書 鎌倉町青年団建碑
この場所は比企ヶ谷の新釈迦堂。即ち、2代将軍「源頼家」の女(娘)で、4代将軍「藤原頼経」の妻「竹御所」夫人の墓所地である。
このお堂の僧侶だった仙覚が万葉集研究の偉業を成し遂げたは、実にこの僧坊(お堂)でした。
今現在、竹御所の墓標として大石が置いてある場所は、まさにお堂の須弥壇の直下に当たります。お堂はおそらく南に面して、僧坊は西に面していたと考えられます。
西側の崖下にある穴は仙覚など代々の僧侶の骨を埋葬した處でしょうか。詳しいことは、万葉集新考 附録 万葉集雑考に載っています。
昭和5年2月 鎌倉青年団建碑
※間違っていたらごめんなさい
事前知識(歴史編)
竹御所
第4代将軍「藤原頼経」の正室。14歳も年上の姉さん女房、歌会に一緒に参加するなど非常に仲睦まじかったとか。懐妊、難産の末、32歳で死去。
なお、将軍家と源頼家(源氏)の血を継ぐ男子が生まれると、執権北条氏の立場が危うくなるため、暗殺されたという説もあります。産所は北条時房邸。その真相を知る人は執権北条氏に近い人達だけなので・・・。
ちなみに竹御所の由来は、御所に竹林があったから。仙覚とは同い年。
比企能員 源頼朝
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比企時員 阿波局=======源頼家 九条道家
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仙覚 一幡 公暁 善哉 竹御所=====藤原頼経
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください。
鎌倉仙覚文庫
鎌倉市は、仙覚律師が妙本寺で万葉集研究を行ったことを記念して、市制80周年事業として、2019年11月、鎌倉市中央図書館などが所蔵する古典文学資料をまとめた「鎌倉仙覚文庫」を開設しました。
また、この事跡を継承、発展させ近代萬葉集研究の礎を築いた歌人&研究者「佐佐木信綱(1872-1963)」が、大正10年鎌倉大町(安養院付近)に「溯川草堂(そせんそうどう)」を設け執筆の場とし門下生を育ててながら鎌倉の文人と交流しました。
仙覚律師(せんがくりっし)
鎌倉時代初期の天台宗の学問僧。権律師。比企氏の出身か?
万葉集の研究で現代にも影響を与える。
藤原頼経、源親行、北条実時(金沢流)らとの文化的な交流がある。
西本願寺本万葉集
1266年に「仙覚文永三年本萬葉集」を完成させて、それを北条実時が書写、さらに書写されたものが、万葉集のすべての底本になっていると言われる「西本願寺本万葉集」。
鎌倉幕府の滅亡後、足利将軍家が所持し、後に皇室に献上。さらに皇室から西本願寺に下賜されて今に至ります。(お茶の水図書館所蔵)
仙覚律師の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
建仁3(1203)年 | 比企能員の乱 | |
0 | 誕生、岩殿観音に預けられる(比企一族の為) | |
13 | 万葉集を志す | |
16 | 上京し、順徳帝の北面の武士に | |
承久3(1221)年 | 19 | 承久の乱 順徳帝を追って配流地「佐渡」近くの越後・寺泊に住む |
寛元4(1246)年 | 44 | 藤原頼経の命により「万葉集」の校訂に着手 →源親行が成した校訂本を引き継ぎ、新釈迦堂に籠る |
文永3(1266)年 | 64 | 宗尊親王が帰洛 |
北条実時が万葉集の写本作成を命ずる ※宗尊親王が志半ばで帰洛したため、その後継として | ||
「西本願寺本万葉集」が完成 | ||
比企郡に戻り、「万葉集注釈」を成す | ||
没年不詳 | 死去 |
※不確実・推測も含まれますので参考まで。
鎌倉時代の文化的な面を深堀りできる石碑です。登場人物も武家的な面とは大きく違うので、多面的な鎌倉を知るにはとっても良い石碑かと思います。