尊長法印|北条義時の毒殺説を言い残し殺害された、黒衣の参謀

尊長法印|北条義時の毒殺説を言い残し殺害された、黒衣の参謀

尊長(そんちょう)

生年不詳-1227 僧侶。
延暦寺の僧侶だったが、後に後鳥羽上皇の側近にとして承久の乱を戦う。法印。法勝寺執行(取締役)

父は一条能保(妻が頼朝の姉?の坊門姫)、母は不明だが、鎌倉系の人物。

永井路子さんの著書「寂光院残照」の中にある「ばくちしてこそ歩くなれ」は、尊長を取り上げた短編歴史小説です。

尊長の簡易年表

時期 年齢出来事
生年不詳0父:一条能保、母:坊門親信の娘
20以前延暦寺に入る
法勝寺の執行になる
承久3(1221)年承久の乱
後鳥羽上皇方として西園寺公経父子を監禁する
この間、行方をくらませる
嘉禄3(1227)年京で捕縛され、六波羅で誅殺される
死刑の直前に「義時の妻が義時に飲ませた薬で殺せ」と叫んだ

二位法印尊長の最期

承久の乱から6年後に承久の乱の首謀者「尊長」が捕らえられました。遠くに逃げたのかと思いきや京に潜伏。当時の六波羅探題だった、北条泰時の嫡男「北条時氏」とのやり取りで、義時の毒殺説を叫んだと「明月記」には書かれています。

嘉禄3(1227)年 6月14日

六波羅からの飛脚が鎌倉に到着した。
先月 7日に鷹司油小路のとある宅で、菅十郎左衛門尉周則が二位法印尊長を捕らえようとしたところ急に自殺を図りました。しかしまだ死んでいなかったので襲撃した勇士二人が負傷。

翌8日に、六波羅で尊長は息絶えました。
尊長は承久三年合戦(承久の乱)の首謀者で、邸に隠れ住んでいました。

法勝寺とは

白河法皇が造った六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺)の一つ。
後白河法皇時代の法勝寺の執行は「俊寛」。鹿ケ谷の陰謀の首謀者です。

僧位

僧侶にも当然、階位があり「法橋→法眼→法印」となります。
頼朝が征夷大将軍になると、鎌倉系の流れを汲む尊長は「法眼」に出世、後に最高位の「法印」になります。

尊長周辺の系図

尊長の父は、頼朝の妹「坊門姫」を正妻とする一条能保(いちじょうよしやす)
ただ、母親が坊門姫(名家)ではなかったため、仏門に入ります。

                   源義朝
               ┏----┻----┓
 一条能保========坊門姫(頼朝姉?)   源頼朝===北条政子
 ┣---┓    ┣-----┳-----┓
 尊長  信能  一条高能  九条良経妻 西園寺公経妻
                |
               九条道家
                |
               九条頼経

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

一条家は藤原家の中では中の上。
坊門姫が産んだ娘が九条良経に嫁ぎ、その流れに、初の摂家将軍(4代将軍)九条頼経がいます。

一条高能(異母兄)

母が坊門姫(頼朝姉)だったため、出世。
叔父にあたる頼朝の将軍祝いの為に鎌倉へ下向する。頼朝の長女「大姫」との縁談が進められたが、大姫に拒絶される。

23才という若さで病死。

尊長ゆかりの地

比叡山延暦寺

尊長が入った寺院は比叡山。

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