大庭景義(景能)|源義朝・頼朝に仕えた、源氏譜代の大庭氏の武士

大庭景義(景能)|源義朝・頼朝に仕えた、源氏譜代の大庭氏の武士

2022-06-28

懐嶋平権守景義(景能)(おおば かげよし)

今回は、相模国大庭御厨の懐島郷(現:茅ケ崎市円蔵)を本拠として、懐島を名乗った武将、大庭氏の大庭景義についていろいろと書いてみました。

※景義には景能、懐島太郎などの別名があります。

懐島館跡(神明大神宮|茅ケ崎市円蔵)

大庭兄弟とその系図

今回の大庭一族の主人公「大庭景義」周辺の家系図を再掲します。

大庭景宗(1115-)
 ├---------┬--------┬------------┐
(懐島)景義(1138-)  景親(1140-)  (豊田)景俊(1145-)  (俣野)景久(1147-)
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 景兼

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

景義は小さいころから一貫して源氏側に付いた武将です。弟の大庭景親俣野景久も、保元の乱の時は「源義朝(頼朝父)」に仕えていましたが、平治の乱で為朝が敗北したのちに、平氏方に移りました。

大庭景義の簡易年表

大庭景義(景能)について、気になる出来事を年表に纏めてみました。

日付年齢出来事
大治3年(1138)0誕生
保元元年(1156)7月18保元の乱に源義朝(頼朝父)軍として出陣
敵方の矢に当たり負傷し歩行困難に、家督を弟に譲り懐島郷へ隠遁
治承4年(1180)8月42頼朝の挙兵に従い、山木兼隆攻めに加わる
弟「景親」に対して、頼朝軍に加わるよう説得
治承4年(1180)10月42頼朝の居館「大倉亭」の建築工事を始める
 以降、鶴岡八幡宮等、建築関係の指揮が多くみられる
囚人 松田有常(後に河村義秀)を預かる
頼朝より懐島郷を安堵される
文治5年(1189)6月51頼朝に対し、直ちに奥州出陣するよう進言する
建久4年(1193)8月55出家する
建久5年(1195)2月57頼朝上洛に随行を嘆願し、随行する
承元4年(1210)4月72景義 死去
建暦3年(1213)5月子 景兼 和田の乱(和田合戦)に加勢し敗死する
二階堂基行、懐島郷の地頭になる

以仁王の乱以降は、大庭氏を残すために兄弟間で源氏・平氏に分かれたとも考えましたが、景義(兄)が景親(弟)に源氏側に付けと説得している様子からも、どうやらそういう訳ではないようです。

弟「景親」は、石橋山の合戦のさなか、かつて同じ平家方にいた北条時政に対して、平家の恩は「海の如く深く、山の如く高い(源平盛衰記)」と言ってるくらいですからね。

吾妻鏡から・・・

20代前半で歩行困難となっていることから、1180年の石橋山の合戦以降は頼朝側に付いていますが、多くの戦いには随行せずに鎌倉の留守役を仰せつかっています。

頼朝に奥州征伐を相談される

また、建築技術・戦術論にも長けていたようで、頼朝からアドバイスを求められたり、囚人を預かったり、建物の建築等と、戦以外の場面で貢献していたことが見て取れます。

文治5(1189)年 6月30日

大庭平太景能は武家の古老として兵法の故実をよく知る人物だった。

そこで、頼朝は奥州征伐について相談された。
「御家人を集めているが、いまだ調整からの勅許が無い。どうすればよいか申してみよ。」

「そもそも藤原泰衡は先祖代々からの御家人の家を受け継ぐ者なので、綸旨が下されなくても処罰することに何の問題があるでしょうか?軍勢の日数を費やすことは諸人の負担。速やかにご出兵を」

景義、保元合戦の事を語る

建久2(1191)年8月1日

終日雨の日。大庭景能(54)が頼朝(45)の新居で盃酒を献上した。
その場に同席したのは、足利義兼(38)、千葉常胤(74)、小山朝政(37)、三浦義澄(65)、畠山重忠(28)、八田知家(50)、土屋宗遠(64?)、梶原景時(52)、比企能員(?)、岡崎義実(80)、佐々木盛綱(41)など。

頼朝がそれぞれに昔話を何か話すようにと言ったので、景能は保元合戦の事を話した。

無双の弓矢の達人「鎮西八郎(源為朝)」との戦い。
東国で馬に乗り慣れていたから、為朝の持っている弓矢が長かったこと、から死なずに足のケガだけで済んだと。なので、勇士はひらすら騎馬に達者であるべき。老人の話だからと言って流してはダメだと。

周りにいたものは頼朝をはじめ感心したと言った。

大庭景義ゆかりの場所

大庭氏ゆかり場所マップ(地図)

神明大神宮(茅ケ崎市円蔵)

茅ケ崎市円蔵の住宅街にひっそりと建っている神明大神宮。

大庭城址から離れていますが、ここも昔は大庭御厨の一部(南西側)だったようで、懐島郷(ふところじまごう)と言ったようです。

※神明大神宮にある石碑に、懐島のふりがなが書いていました。

多くの書籍では「大庭景義」と書かれていますが、神明大神宮では一貫して「大庭景能」と書かれていますが、同一人物と考えて大丈夫だと思います。

いろんな史料によって、名前が異なったりしているので、なかなか同定したり理解するのは難しいですね。

この神社の境内(本堂裏手側)に、大庭景義が住んでいたと思われる懐島館跡があり、その周辺には景義に関する石碑や説明板などが所狭しと並んでいます。

大庭景義の事を知るには絶好の場所です。特に年譜の細かさが素晴らしいです。

大庭景義の子「大庭小次郎景兼」の文字も見られます。
大庭の名を継いだ弟「景親」が源平合戦で敗死した為に、父が出家したのち、景義の子が大庭を継いだようですね。本来の長男筋に戻ってきました。

そんな景兼も和田合戦で和田方について敗死してしまいました。
他史料では、その後の景兼の足取りは不明とかもありますが、ココの年譜には明確に敗死と書いています。

大庭景義の事を詳しく知りたいのであれば、ここを訪れることをお勧めいたします。

車で来られる場合は「円蔵」交差点近くに何ヶ所かあるコインパーキングが便利です。
神明大神宮の周辺の道は細くて、袋小路もあったり、駐車場もありませんので要注意!

えな塚(旧跡 懐島山の碑)

源頼朝の側室「丹後局(=藤九郎の妻)」が、頼朝の子を身籠ったが、北条政子に知られてしまったので、ここ大庭景義の館に身を隠して、ここで男子(三郎)を出産。その胎盤を納めた場所と伝わっています。

※胞衣(えな)とは、胎盤のこと。
日本百名山の恵那山は、天照大神の胞衣(えな)が埋められた場所から山名の由来となっているようです。

成長した三郎は、「島津忠久」と名乗り、九州島津氏の祖となりました。
それで島津氏は頼朝の末裔と言われ、鎌倉市にある源頼朝の墓は、江戸時代の藩主「島津氏」が再整備し、家紋が彫られています。

源平池(鶴岡八幡宮境内)

頼朝の御所をはじめ、鎌倉の建築に関する事の多くに、大庭景義が関わっています。
鶴岡八幡宮境内にある源平池を作るように頼朝に命じられたのも大庭景義です。

源平池|鶴岡八幡宮境内にある大きな池、源氏池+平家池=源平池(石碑を読む)
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