田中絹代|昭和の大女優の鎌倉ゆかりの場所を徹底調査しました(継続調査中)

田中絹代|昭和の大女優の鎌倉ゆかりの場所を徹底調査しました(継続調査中)

このページは昭和の大女優「田中絹代」さんについて、鎌倉を中心にゆかりのある場所を整理しています。

松竹の撮影所が大船に移ってから、田中絹代さんも鎌倉の鎌倉山に長年住んでいた為、足跡が残る場所を何ヶ所も見つけることが出来ました。

田中絹代(たなか きぬよ)とは?

明治42年生まれ。四男四女、八人兄弟の末っ子。
下関出身ぽい話としては、母方壇ノ浦で滅んだ平家の流れを一門らしく、田中絹代も小さい頃から琵琶を習っていたとか。

14歳で松竹に入社し、清純派スターを経て、看板女優となりました。亡くなるまでに出演した映画は約250本。晩年は映画監督に挑戦して6作品を残しています。

個人的に、アマゾンプライムで見た『サンダカン八番娼館 望郷』は、1974(昭和49)年にベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞。60歳近い田中絹代晩年の作品ですが、圧倒的な存在感でした。

時間があれば、清純派スターと言われた若い時代の田中絹代作品も見てみたいですね!

田中絹代さんの年表(鎌倉中心)

年代年齢出来事
1909(明治42)年11月0歳山口県下関市にて誕生
1925(大正14)年16歳松竹蒲田撮影所に移籍
1929(昭和4)年20歳小津安二郎監督作品「大学は出たけれど」に出演
1936(昭和11)年27歳撮影所が大船(松竹大船撮影所)へ移転、鎌倉旭ヶ丘へ転居
1949(昭和24)年40歳鎌倉山(元司法大臣宅)へ転居
1965(昭和40)年56歳鎌倉腰越に自宅を新築
1977(昭和52)年3月67歳順天堂病院にて死去、墓所は下関中央霊園(下関市)
1979(昭和54)年円覚寺に分骨

田中絹代ゆかりの地(鎌倉市)

鎌倉山(住まい)

松竹の撮影所が蒲田から大船へ移転した時期と同じくして、田中絹代は鎌倉山に豪邸を建てて住むようになりました。そして、鎌倉山の中で引っ越しもしています。

鎌倉山は実業家の菅原通済が開発した場所で、大船~江ノ島まで日本最初の自動車専用道路を開通させ、鎌倉山はその中心部にあります。

菅原通済|鎌倉山の名付け親&アクセス道路を開発した実業家
菅原通済(すがわら つうさい) 1894-1981(明治27-昭和56) 実業家、江ノ島電鉄の経営、大船~江の島間の有料道路、高級別荘地「鎌倉山」を開発した人。…
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松竹大船撮影所までの交通の便が良かったのも、鎌倉山に目が向いた一つなんでしょうね。

旭ヶ丘(絹代御殿)

まずはじめに住んだのが鎌倉山の旭ヶ丘という場所。
今は、鎌倉市鎌倉山1~3丁目という住所になっていて、旭ヶ丘という地名はありませんが、「旭ヶ丘バス停」が残っています。

昭和10年頃に500坪の土地を購入して、昭和11年夏ごろに落成。田中絹代26歳という若さです。
※テニスコート1面が約80坪のようなので、テニスコートが6面分の廣ですね。

昭和12年には、城戸四郎(松竹蒲田撮影所長、松竹大船撮影所長)を招いています。城戸四郎はその後、旭ヶ丘から極楽寺まで町境道(このページの下記に記載)を歩いて帰ったとか。

「絹代御殿」とも呼ばれたこの場所は、相模湾・富士山が見渡せる眺望が。
この場所で、母ヤス・兄弟達と一緒に住んでいたようです。

高級住宅地としての開発だったこともあり、西隣には近衛侯爵の別邸、東隣にはオペラ歌手の藤原義江が住んでいました。藤原義江は田中絹代と同じ下関出身の人です。

藤原夫妻と田中絹代が近衛首相にお呼ばれして、自宅に伺ったとか。

絹代御殿から見えたであろう相模湾の眺望

山椒洞跡

田中絹代が40歳の時、絹代御殿から500mほど離れた眺望の良い場所が(600万円、3万坪)で売りに出されたので購入します。売主は元司法大臣岩田宙造邸。

ちなみに購入した昭和26年の新聞に、鎌倉市民税納税者ベスト3が載っていたようですが、

1位 田中絹代
2位 大佛次郎(作家)
3位 小島政二郎(作家)

と、まだまだ大女優だったようです。

その後、田中絹代がしばらく住んでから、お蕎麦屋さんで有名な檑亭が取得。
檑亭の別館「山椒洞」という懐石料理屋さんになりました。

山椒洞跡地

建物は、鎌倉市の景観重要建築物だったようですが、和風建築の維持が大変だったようで取り壊されました。今は、すぐ横にみのもんた氏の家が建っています。

鎌倉市の指定建築物表示案内板(第24号)、今は檑亭のみ掲載されていますが、「山椒洞」が存在した当時は檑亭と山椒洞が並んで書かれていました。

檑亭(旧清香園)・山椒洞(旧岩田宙造別荘)

檑亭・山椒洞は鎌倉山が住宅地として開発された当時の歴史を今に伝える貴重な建物です。
檑亭の本館は、横浜の養蚕農家を移築したもので、玄関は手広の青蓮寺、山門は西御門にあった高松寺からの移築によるものです。
建物内部は、太い梁を交差させた天井、ステンドグラス、暖炉、古道具を用いた家具・照明器具など、和洋折衷の特異な空間が創り出されています。
山椒洞は、格調高い数奇屋建築で、戦前の鎌倉の和風別荘建築を代表する建物です。
緑に囲まれた鎌倉山の谷間を挟んで建つ二つの建物は、鎌倉山ならではの優雅な雰囲気を醸し出しています。

鎌倉市の指定建築物表示案内板(第24号)

松竹大船撮影所

現在の鎌倉芸術館・イトーヨーカドー・鎌倉女子大学にあった撮影所。
いわゆる女優の田中絹代の職場ですね。

松竹一筋で鎌田から大船撮影所に移る頃には「大幹部」というトップクラス。年収は現在価値で約1億円だったとか。

松竹大船撮影所の名残を探して大船巡り|地名や写真、飲食店など
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ちなみに、映画繋がりで、川喜多かしこさんとは親しい友人だったようです。

幻董庵

幻董庵(げんとうあん)は、鎌倉市山ノ内(北鎌倉)にある懐石料理店。

ここがなんと、昭和の大女優「田中絹代」の別宅を改築した建物らしいのです。以前、ランチを頂いたときはそのようなことを気にしたこともなく、勿体ないことをしました。

旭ヶ丘の「絹代御殿」とも違うらしく、どこの自宅だったのかは調査不足です。
家屋を改築したのは2005年、その年に懐石料理店を開業。ミシュランの一つ星を獲得。

幻董庵さんは完全予約制のお店。ランチのコースは最低でも5,500円(税込)からです。

田中絹代が歩いた山道

江ノ電の極楽寺駅を降りて、月影地蔵の横の墓地の道を上がっていくと、山道に入って行きます。行きつく先は鎌倉山。女優の田中絹代も歩いたと言われる山道です。

歴史学者で鎌倉アカデミアの教授も担当し、同じく鎌倉山に住んでいた服部之総(はっとりしそう)
夜に月影地蔵から、この道を歩いて鎌倉山の自宅に帰ろうとしたときに、田んぼの汗に女性が一人。
「鎌倉山へ帰るのなら、お供させて下さい」と、声をかけたのが田中絹代。女性一人の山道は気持ち悪いですからね。

男一人でも夜には歩きたくない山道です。
雰囲気は上記のYouTubeをご覧ください。

円覚寺松嶺院(墓地)

円覚寺の塔頭松嶺院(しょうれいいん)は、円覚寺150世叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき|太田道灌の実弟)
要拝観料で、春(4~6月)、秋(9~11月)以外は非公開です。ボタンで有名です。

鎌倉花めぐり 4月 ボタン(牡丹)|鶴岡八幡宮、建長寺西来庵他
鎌倉検定の公式テキストブックを参考に、鎌倉の神社仏閣へお花めぐりに行ってます。今回は4月に見られる「ボタン」を見に行ってきました。 ボタン(牡丹|4月中旬~5月…
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遺骨は故郷の下関に母らとともに眠っていますが、分骨がここ鎌倉円覚寺松嶺院に祀られて、三回忌に墓碑が建てられました。「げいにあそぶ(会津八一筆)」と刻まれています

墓地は境内の横から坂道、階段を上がった上側にあり、漫画家「清水崑」、俳優「佐田啓二(中井貴一の父)」のお墓もあります。

田中絹代の初キスシーンは昭和22年「不死鳥」でのこと。
お相手が、当時年下だった佐田啓二。同じ場所に墓があるのは凄い縁ですね。

田中絹代ゆかりの地(山口市)

田中絹代ぶんか館

有名な観光スポット「唐戸市場」のすぐ北側に位置する山口県下関市田中町に、下関市近代先人顕彰館「田中絹代ぶんか館」があります。

入館料は無料です。毎週火・水と週2日も休館日があるので要注意。

建物は三階建てになっていて、1階はふるさと文学館、2階が田中絹代記念館になっています。

館内の写真撮影は禁止なのですが、清純派と言われた若かりし頃の田中絹代の写真もありますし、小津安二郎、鎌倉山の自宅のことなども掲示されていて、鎌倉市民が行ったら楽しめると思います。

参考資料

私の履歴書 文化人13
花も嵐も 女優・田中絹代の生涯

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