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北条(四郎)時政(ほうじょう ときまさ)
1138-1215。伊豆国の在地豪族。鎌倉幕府の初代執権。
源氏の貴種「源頼朝」を婿に迎え、息子の「義時」に鎌倉を追放されるも、鎌倉北条氏の礎を作った重要人物です。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、坂東彌十郎さんが演じられます。
北条時政の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
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保延4(1138)年 | 0 | 誕生 |
源義朝の嫡子「頼朝」の監視役となる | ||
娘「政子」が頼朝と結婚する | ||
治承4(1180)年 | 43 | 頼朝と挙兵の計画を練る、山木館を襲撃 石橋山の戦いで敗北し、甲斐国へ逃げ甲斐源氏と合流 |
寿永元(1182)年 | 45 | 亀の前事件で、時政一族は伊豆へ立ち退く |
文治元(1185)年 | 48 | 頼朝の命で京へ行き、守護・地頭の設置を認めさせた(文治の勅許) |
文治5(1189)年 | 52 | 伊豆北条の地に願成就院を建立 |
正治元(1199)年 | 62 | 十三人の合議制に名を連ねる |
正治2(1200)年 | 63 | 遠江守に。源氏一門以外の御家人として初めての国司 |
建仁3(1203)年 | 66 | 比企能員の変で比企氏を滅ぼす |
元久2(1205)年 | 67 | 畠山重忠の乱 平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受けて、重忠を謀反の罪で滅ぼす |
鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居 | ||
健保3(1215)年 | 78 | 北条の地で死去 |
北条時政は、頼朝の挙兵当初は少しの軍勢しか持たない小さな豪族のようで、関東の御家人が参集すると、三浦氏、千葉氏、小山氏、などとの大豪族に押され吾妻鏡上でも目立たたなくなります。
が、東海方面の守護、京都守護など、着実に所領を広げ、人脈を広げ、頼朝死後にその力を開花させます。
また、北条時政の烏帽子親は源義朝(頼朝父)の専一の郎党だった「鎌田政清」。あの勝長寿院跡に源義朝墓のとなりにあるお墓の人物です。昔から源氏とつながりがあった?と思わせる内容も伝わります。
吾妻鏡より
北条時政最期の記録
一時期、権勢を誇った北条時政ですが、死去は飛脚によって知らされ、義時や政子に看取られてということは無かったと想像できます。
建保3(1215)年 正月8日
伊豆国の飛脚が鎌倉に到着。
「今月6日、戌の刻(20時頃)に入道遠江守従五位下朝臣(北条時政|享年78)」が、北条郡で死去しました。このところ腫物を患われていました」
北条時政周辺の系図
北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫と称しています。
北条氏の中でも、時政は北条氏の当主ではなく傍流とのことですが、時政の前半は謎の様です。
鎌倉幕府で覇権を握る北条氏は、得宗家を含め名越、金沢流など、すべて時政から続きます。
北条時方
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伊東祐親の娘===北条時政=======牧の方 他
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宗時 政子===源頼朝 義時 阿波局 時房 畠山重忠室
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頼家 実朝
時政には沢山の子供がいて、上記の系図にも書ききれないほど、いろんな御家人の嫁に行ったりしています。
京都へも在京していたため、公家などととも繋がりがあります。
宗時、義時は、同母の兄弟です。
北条時政ゆかりの地
願成就院跡
文治5(1189)年、奥州平泉攻めの成功を祈願して、北条時政が創建した寺院。
今ある願成就院の境内の横(入口横)にある、大きな平地が願成就院跡です。
大御堂に安置されている、国宝の仏像群は仏師運慶作。
この仏像作成に対抗したのが、三浦一族の和田義盛。浄楽寺の本尊も運慶作です。
北条時政墓(願成就院境内)
願成就院の境内に入って左側へ行くと、北条時政のお墓があります。