泉親衡|源氏再興のために、執権北条氏の打倒を企てた信濃源氏の嫡流-泉親衡の乱

泉親衡|源氏再興のために、執権北条氏の打倒を企てた信濃源氏の嫡流-泉親衡の乱

2022-01-12

泉親衡(いずみ ちかひら)

1178?-1265?
信濃源氏の流れを汲む(嫡流)鎌倉幕府の御家人。和田合戦のきっかけとなった「泉親衡の乱」の首謀者。

泉親衡の簡易年表

源平合戦の時は、まだ若く、頼家実朝時代の人物です。
目立った動きは、泉親衡の乱だけで、その後の50年近くは、逃亡・出家の生活を送ったとみられます。

時期年齢出来事
1178(治承2)年?0誕生(父:泉公衡)
1213(建暦3)
36泉親衡の乱
源頼家の遺児「千寿丸」を鎌倉殿に擁立し、執権北条氏の打倒を図る
1265(文永2)年88死亡

吾妻鏡より

泉親衡は、吾妻鏡にたった2日しか出てきません。が、有名人ですね。

建保元(1213)年2月16日 (泉親衡の乱)

信濃国の住人「泉小次郎親平」が、故源頼家の若君で尾張中務丞が養育していた「栄実」を大将軍として北条義時を殺害しようと、一昨年より謀反を企て、下記の者達と語り合っていたが、前日に捕らえられた安念法師(謀反者たちの使者)が白状した事により、謀叛の者が諸所で生け捕られた。

和田義直(和田義盛の子)
和田義重(和田義盛の子)
渋河兼守(歌の橋ゆかりの人物)
和田胤長(和田義盛の甥)
宿屋重氏
市村近村
狩野小太郎他

その他にも、信濃国、越後国、下総国、伊勢国、上総広常の甥など、中心人物約130人、一味は二百人にも及ぶという。その身柄を捕らえて鎌倉へ進めるよう諸国の守護人に命じられた。

同年 3月2日

今回の謀反の首謀者である泉小次郎親平(衡)が、違橋(現、筋替橋)に隠れているとの噂があり、工藤十郎と遣わせたところ、泉親衡はすぐさま合戦を行い、工藤十郎と郎従数人を殺害して逃亡。

その逃げ道を塞ごうと鎌倉中が騒動したが、結局、泉親平(衡)の行方は分からなくなった。

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泉親衡のその後

執権北条氏打倒の企てが事前に発覚した時、追手を討って逃亡、行方を晦ました。

鎌倉を退出後、諸国を転々とし、武蔵国三芳野(河越氏)の豊田源兵衛を頼り、千寿丸と共に出家。
名を「静海」と改め、そのまま88歳で没した(河越市最明寺縁起による)

泉親衡の系図

泉小次郎親衡は、信濃国(上田市小泉)の住人。祖先を辿れば「経基王」に行きつきます。

源経基(清和源氏
 ├--------------┐
源満仲(嫡男)        源満快(5男)
 |              |      
源頼信(河内源氏)      源満国
 |              |
 |              |
源頼朝            泉親衡

泉親衡ゆかりの地

泉親衡ゆかりの地は、横浜市泉区の中でも、相鉄「いずみ中央」駅付近に固まっています。
徒歩圏内で巡れる範囲です。

長福寺(臨済宗円覚寺派)

泉(小次郎)親衡の創建道場。開山は大覚禅師(蘭渓道隆)の法弟「空山円印禅師」
※空山円印禅師は、建長寺西来庵塔主→円覚寺塔頭雲頂菴→浄妙寺住持

長福寺がある場所は横浜市泉区。
「泉区」という地名は、泉親衡と関係がありそうです。(そして、覚えやすいです)

馬洗いの池(泉中央公園内)

泉小次郎親衡が馬を洗ったと伝えられている池です。
長福寺から100mくらいしか離れていない「泉中央公園」の中にあります。

須賀神社

泉小次郎親衡が守護神として祀った神社。

滝前不動尊

泉小次郎親衡の守り本尊と言われている。
昔不動尊の左右に滝があったそうで「滝前」という名前が付いていると。

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