今回は源氏山公園内(葛原岡神社側)にあった、「藤原仲能之墓(ふじわらのなかよしのはか)」石碑を読んでみました。
藤原仲能って誰?という疑問と、新しい人物を知ることが出来るという好奇心が沸々と。
目次
藤原仲能之墓

「藤原仲能之墓」石碑の場所
石碑は葛原岡神社から浄智寺に向かうハイキングコースの終点付近(源氏山公園)に設置されています。

葛原岡神社から海蔵寺へ行くには、仮粧坂を経由するが一番近いと思いますが、歩くとそれなりの距離。
でも、地図で見ると、山を越えるとすぐ隣なんですよね。
海蔵寺の裏山が源氏山。
鎌倉はこういう山(もしくは谷戸)を挟んでお隣さんに位置するって場所が多く、そういう土地勘を持つのは鎌倉を楽しむために凄く大切かも。
石碑に書かれている文字は?
此所ハ道智塚或ハ阿古耶尼ノ塚ト傳ヘラレシモ海蔵寺傳ニ據リ藤原仲能ノ墓所ト考察セラル
仲能ハ従五位下前能州大守ニシテ鎌倉幕府評定衆タリシガ後年海蔵寺中興ノ大檀越トナリ
建長八年十二月九日寂シ道智禅師ト稱ヘラレシモノノ如ク其位牌同寺ニ現存ス
昭和十一年三月建 鎌倉町青年團
ここは道智塚、あるいは、阿古耶尼(あこやに)の塚と伝えられるが、海蔵寺に伝わるところによると、藤原仲能の墓所と考えられる。
仲能は従五位下、前能州(能登)太守であり、鎌倉幕府の評定衆でもあったが、後年は海蔵寺を中興する檀家となった。
1256年(建長8年)12月9日に死去し、道智禅師と言われるようになり、その位牌は海蔵寺に今も残る。
昭和11年3月建立 鎌倉町青年団
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
傳:現在の「伝」
據:現在の「拠」
稱:現在の「称」
この「新漢字・旧漢字対照表」ページはとっても便利です。
事前知識(歴史編)
藤原仲能(ふじわらのなかよし)
鎌倉幕府評定衆。陸奥守、伊賀守、能登守。宗尊親王の命により海蔵寺を建立。
鎌倉に下り征夷大将軍になった宗尊親王(鎌倉幕府6代将軍)の後見人を務めた。
大江広元の妹婿「藤原仲教」の子。
大江維光?
┏---┻---┳
大江広元 妹===藤原仲教
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藤原仲能
能州太守
能州は「能登」、太守は「守」。よって「能登守」
藤原仲能は、嘉禎4(1238)年前後に能登守だったようです。
評定衆
鎌倉幕府の職名。3代執権「北条泰時」が新設。
執権・連署と一緒に、裁判・政務などを合議した11名のグループ。今で言うと内閣。
大檀越
おおだんおつ。檀越とは寺や僧にお布施をする信者。
今風に言うと、お寺の強力なスポンサー。
日蓮宗の大壇越だった「四条金吾」などが有名。
建長八年
1256年。けんちょうは1249-1256年。
前元号は「宝治(ほうじ)、次元号は「康元(こうげん)」
建長寺は建長年間に創建された元号寺。他の元号寺には、延暦寺、仁和寺、寛永寺。
元号名を寺名にするには天皇の勅許がいる為、なかなか凄いことらしいです。
扇谷山 海蔵寺
臨済宗建長寺派のお寺。扇ガ谷にあるので「扇谷山」と覚えてます。
藤原仲能の石碑を読むと、海蔵寺が出てくるのですが、海蔵寺のお寺の前にある「説明板」にも、鎌倉検定本の海蔵寺の項目にも、藤原仲能は一回も出てきません(汗)

海蔵寺の建立は1394年と室町時代になっていて、藤原仲能が中興したときは鎌倉時代なので、時期がズレますけど、説明板の初めには
鎌倉時代、七堂伽藍を持つ規模の大きい寺があったと伝えられますが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、
海蔵寺 説明板(鎌倉市)
このような事が書いてあるので、海蔵寺の前身の話と考えてよさそうですね。
また、お寺のパンフレットにもこう書いてあります。
もと真言宗の寺跡であるこの渓に、建長五年(1253年)宗尊親王の命によって、従五位前能州太守藤原仲能が本願主となり、七堂伽藍が再建された。しかし元弘三年(1333年)鎌倉幕府滅亡のおりに烏有に帰した後、・・・
扇谷山 海蔵寺略縁記
藤原仲能-宗尊親王コンビで作られた寺院だったんですね。
東国花の寺 百ヶ寺
関東の一都六県にある花で有名な100か所の寺で構成される会「東国花の寺 百ヶ寺」。
「鎌倉」だけ特別なカテゴリーとして分けられていて、海蔵寺は7番札所に選ばれています。
その他、極楽寺、光明寺、英勝寺、浄智寺、円覚寺などおなじみのお寺が10か所(鎌倉市内)あります。
海蔵寺では主な花として、山門前に咲く「ハギ」が紹介されていますが、1年中何かしらの花が咲いているお寺です。
鎌倉市内にある旧跡案内石碑一覧
鎌倉市内(&近隣)にある、約80か所近くの旧跡案内石碑を一覧にしています。