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収玄寺(日蓮宗)|鎌倉市長谷
今回は収玄寺というお寺にフォーカスを当ててみました。
個人的には日蓮さんの勢いが好きで、四大壇越とも言われる「四条金吾」との関係も気になってました。
鎌倉時代にどんな物語があったのだろうかと・・・。
先日、収玄寺で由来記買いました!
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) May 25, 2021
ちゃんと成り立ちとか知って神社仏閣巡りしたいから、こういうの大好き。
そしたら御霊神社みたいな事📸にはならないと思うし😎#鎌倉 #収玄寺 #紫陽花 pic.twitter.com/q6idIrtWNY
収玄寺の場所
収玄寺は江ノ電長谷駅から長谷寺に行くまでの道(左側)にあります。
周辺にある、長谷寺や高徳院(鎌倉大仏)と比べると、境内もこじんまりとしていて観光客も少ないですね。

開門時間は意外と早くて、8:00にはすでに開門していることが多いです。
閉門は日没ということで、決まった時間は特にないみたい・・・。
収玄寺の概要
お寺についての概要は境内にある説明板が一番分かり易いですね。

日蓮宗のお寺なので、日蓮上人はもちろんの事、四条金吾、北条(江間)光時の人物の名前が出てきます。
其の方々のことを詳しく知ると、収玄寺についてももっと詳しく分かりそうです。
北条(江間)光時
生没年不詳。名越流北条氏の祖「北条朝時」の嫡男、名越光時とも言う。
前将軍、藤原頼経(第四代征夷大将軍)と共謀して北条時頼(第五代執権)を廃しようとした(宮騒動|1246年)
藤原頼経派は敗北。藤原頼経は京都へ送還、北条光時は出家、所領没収されて伊豆国江間郷へ配流。
それ以降、子孫は名越流の嫡流から離れ、江間氏を称した。
二月騒動(1272年)で、光時の弟「教時」が再び謀反をおこして、北条時宗に討伐される。
四条金吾頼基
四条金吾(本名は頼基|よりもと)
父の代から、江間氏の家臣。日蓮の4大壇越として、日蓮宗の中では超有名人。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1229年 | 四条金吾(頼基)が生まれる。 父は江間氏(北条光時)の家臣 | |
1246年 | 17才 | 宮騒動で北条光時が江間郷へ配流、金吾父も従う |
1253年(建長5年) | 父死去。日蓮大聖人が日蓮宗を立宗。安房から鎌倉へ来て辻説法 | |
1254年頃 | 25才頃 | 日蓮宗に入信(最初期の門徒) |
1271年(文永8年) | 龍の口法難。ともに切腹して果てんとの覚悟。佐渡へ配流。 | |
1272年 | 43才 | 二月騒動 佐渡まで日蓮大聖人をお見舞いへ |
1274年 | 四条金吾、江間光時に法華経の信仰を勧める | |
1277年 | 6月 桑が谷問答で主君江間氏より勘気を蒙る 主君江間氏が重病に掛かるも、金吾の看護・調薬で回復 | |
1282年 | 53才 | 日蓮大聖人、池上にて入寂 |
晩年、内船(山梨県)の領地に隠棲 | ||
1296年 | 67才 | 四条金吾死去。法名、収玄院日頼。 |
上記の表には主な出来事をピックアップしましたが、日蓮と四条金吾はその間多くの手紙をやりとりしてて、現在約40通も現存しているそうです。
収玄寺というお寺の名前は、四条金吾の法名から来てるんですね。
四條金吾夫婦の命日(3月15日)には、毎年収玄寺において法要(四条金吾夫婦命日法要)が行われています。
また、日蓮上人に帰依した鎌倉武士として、収玄寺と同じ鎌倉長谷地区には光則寺の「宿屋光則」もいます。
四條金吾邸跡「石碑」
収玄寺の境内の真ん中に大きい石碑が建っています。
日露戦争の時連合艦隊を率いた「東郷平八郎」の筆によるもので、東郷平八郎は日蓮宗の信者だそう。

歴史上有名な人物で日蓮宗の信者って結構いるんですよね。
収玄寺の四季の花
収玄寺は、近くにある光則寺・長谷寺ほど咲く花の種類は多く有りませんが、一年中何かしらの花が咲いています。
ウメ(2月)
アジサイ(6月)
フヨウ(8月)
蕪珈琲(収玄寺境内)
収玄寺の境内には、収玄寺が経営するカフェがあります。
営業時間が12:30~、定休日は不定休 とのことなのですが、空いてたらラッキーぐらいに思った方がよいですね・・・。雰囲気は抜群に良いですよ。
四條金吾ゆかりの地
四條金吾の墓所は内船寺(ないせんじ|山梨県南巨摩郡)に現存。
四條金吾頼基公が建治3年(1277)、邸内に三間四面の持仏堂を建立したのにはじまります。
この内船の地は、主君光時の大病を平癒させた功によって、此処内船の地を与えられたものだそう。
医術の心得もある四条金吾は日蓮の病気も治したりしています。