今回は「宇津宮辻幕府(宇都宮辻幕府)」についての石碑を読んでみました。
11年間という短い期間ですが、初の摂家将軍「藤原頼経」が長く住んでいた場所ですね。
ちなみに、石碑に書いている「辻」というのは間違いで、正確には「辻子(ずし)」。大路・小路を結ぶ道路という意味。本来は「宇津宮辻子幕府跡」が正しいのですが、ココでは石碑通りに記載しています。
源頼朝が住んでいた大蔵幕府から心機一転!っという感じだったのではないでしょうか。
目次
宇津宮辻幕府旧蹟

「宇津宮辻幕府旧蹟」石碑の場所
細かい路地の分かりにくい場所に設置されています。
石碑に書かれている文字は?
鎌倉幕府ハ初メ大蔵ニ在リシガ
嘉禄元年政子薨シテヨリ之ヲ他ニ遷サントノ議起リ乃チ時房泰時等巡検評議ノ末同年十一月此ノ地ニ造営十二月将軍藤原頼経此ニ移リ住ス
爾後嘉禎二年頼経再ビ之ヲ若宮大路ニ遷セルマデ天下ノ政令ノ此ニ出ヅルモノ凡テ十二年ナリ
大正十年三月建之 鎌倉町青年會
鎌倉幕府は、初め大蔵(大倉)にあったが、1225年(嘉禄元年)に北条政子(頼朝妻)が亡くなってから、幕府を他に遷そうという議題が起り、北条時房や泰時等の評議の結果、同年11月に幕府をこの地(宇津宮辻)に造営し、12月には4代将軍「藤原頼経」がココに移り住んだ
その後、1236年(嘉禎2年)に藤原頼経が再び若宮大路に移られるまで、約12年間、ココで武家政治が行われた。
大正10年3月建 鎌倉町青年会
間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
今回は難しい漢字や読み方は出てきませんでした。
事前知識(歴史編)
嘉禄元年
1225年。かろく。1225-1227年。後堀河天皇、藤原頼経(将軍)、北條泰時(執権)の時代。
嘉禎二年
1236年。かてい。1235-1238年。四条天皇、藤原頼経(将軍)、北条泰時(執権)の時代。
藤原頼経(第4代征夷大将軍|摂家将軍)
1218-1256。幼名は三寅。九条頼経とも。
この付近からは、古瀬戸(瀬戸焼の古い物)、常滑焼のかわらけなどが多数出土したようです。
常滑焼は12世紀初めから、今に至るまで知多半島全体で作られている陶器のこと。
知多半島は、源頼朝の父「源義朝」が暗殺された野間(尾張国)がある場所です。
宇都宮朝綱
1122-1204年。平安時代~鎌倉時代の武将。下野国宇都宮氏の第3代当主。
宇津宮辻幕府のあった「宇津宮」という地名は、この宇都宮朝綱が住んでいたからとされる。


宇都宮稲荷神社
源頼朝が鎌倉に幕府を開いたとき、宇都宮朝綱(宇都宮二荒山神社の神職&在地武士)もこの場所に屋敷を構えて、宇都宮から神様を分霊して祀ったのが宇都宮稲荷神社。
宇津宮辻幕府は、この稲荷神社の場所に建てられました。

