鎌倉には、映画の世界で活躍した多くの人々が暮らしてきました。
小津安二郎、田中絹代、原節子、笠智衆、佐田啓二――。その背景には、かつて大船に松竹大船撮影所があったことも無関係ではありません。映画人たちは鎌倉に暮らし、作品を生み、ときには互いに交流しながら、この鎌倉にさまざまな足跡を残しました。
今も鎌倉を歩けば、住居跡や墓所、映画にまつわる場所など、その記憶に出会うことができます。このページでは、昭和の銀幕を彩った俳優や監督たちと鎌倉とのつながりを、ゆかりの場所とともにたどります。
目次
日本映画の歴史
日本で初めて映画が上映されたのが1896年(明治49)年、当時はサイレント映画でした。
今もある「松竹」は、蒲田の地で1920年(大正9年)からスタート。
戦争が始まって、蒲田撮影所の周辺が軍需工場次々と変わり騒音が激しくなり移転を検討し、まだ田舎だった大船へ。
松竹大船撮影所は1935年~2000年(昭和10年~平成12年)まで続きました。
時代背景はざっとこんなところでしょうか。

映画俳優編(生年月日順)
鎌倉検定本「鎌倉と映画」の箇所に記載されている、鎌倉ゆかりの俳優は4人です。生年月日からも松竹大船撮影所があった時期と重なります。
小津安二郎(1903-1963)
そして、下記四人の俳優を結びつけるのが北鎌倉に住んだ小津安二郎監督。
父役、娘役、青年役、恋人だったのではないかとの噂など。深掘りすると面白いです。
当時の鎌倉には、映画人たちが交流する「鎌倉会」という集まりもあり、小津安二郎、笠智衆、田中絹代、脚本家の野田高梧らが顔を合わせていました。大船撮影所が近くにあった時代、鎌倉には映画人同士の交流が生まれる土壌もあったようです。
笠智衆(1904-1993)
小津安二郎監督に見いだされ、小津安二郎作品には欠かせない人(戦後の小津作品には前作出演)となりました。年齢からも他の俳優陣と比べて年上で、日本の父親像を演じてきた一人です。
「晩秋」では、原節子の父親役、
「宗方姉妹」では、田中絹代の父親役、
「秋刀魚の味」では、岩下志麻の父親役、
を演じています。
田中絹代さんと原節子さんと親子共演しているので、お互い良く知っている仲だったんでしょうね。
小津作品以外では、『男はつらいよ』シリーズの御前様役でもおなじみ。小津映画の父親役とはまた違った笠智衆の姿を見ることができます。


墓地は小袋谷成福寺にあります。
田中絹代(1909-1977)
松竹に入社、1965(昭和40)年に鎌倉山に新居を構える。
当時大船に会った松竹撮影所まで、大船-江の島間の日本初有料道路を利用して通っていたと思われます。
晩年の作品、1974年(昭和49年)に「サンダカン八番娼館 望郷」でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞。
川端康成(1899-1972)の「伊豆の踊子(かなり昔のサイレント映画)」にも出演しています。
上記の笠智衆との親子役もあります。
お墓は、円覚寺松嶺院です。


松嶺院は入れる時期(主に春・秋)と入れない時期があります。境内は散策ルートが決まっていて、散策ルートの途中に田中絹代さんの墓があります。
鎌倉山の住居跡や墓所、下関の田中絹代ぶんか館など、田中絹代と鎌倉の関係については別記事で詳しく紹介しています。
原節子(1920-2015)
小津安二郎作品には欠かせない、日本映画を代表する女優。生涯独身を貫きました。
小津作品では『晩春』『麦秋』『東京物語』に出演。いずれも「紀子」という名の女性を演じ、「紀子三部作」と呼ばれています。なかでも『麦秋』は鎌倉を舞台にした作品で、映画の中には当時の鎌倉の風景も登場します。
原節子が16才頃の時、田中絹代と共演する流れがあったが、所属の関係から流れてしまいます。
※初の日独合作映画「新しき土」(結局、原節子のみのキャスティング|下記の川喜多長政が制作)
1963年(当時43才)、小津安二郎監督が亡くなりお通夜に出たのを最後に、女優業を引退して、1964年に鎌倉に引っ越し。余生を鎌倉で過ごしました。
また、1993年に笠智衆のお通夜前には、極秘に訪れたようです。
佐田啓二(1926-1964)
本名「中井寛一」。俳優「中井貴一」の実父。
1946年(昭和21年)松竹大船撮影所に入社。
翌年、「不死鳥」で、田中絹代の相手役に抜擢されて、田中とのラブシーンが話題となります。
小津安二郎監督の作品にも数多く出演し、1962年公開の小津監督最後の作品『秋刀魚の味』にも出演。佐田は小津を父親のように慕っていたといわれ、1963年に小津が亡くなった際には、その死を深く悲しんだと伝えられています。
その翌年の夏、家族で蓼科高原に遊びに行き、撮影の為、家族を置いて帰京する途中に交通事故に遭い死亡。中井貴一はその時3歳でした。
墓所は円覚寺松嶺院。本名の中井家になっています。
丁度、田中絹代さんの墓所の反対側にあたります。
若き日に田中絹代の相手役として注目された佐田啓二。その二人の墓所が、現在は同じ松嶺院にあるというのも不思議な縁みたいなものを感じますね。
夏目雅子(1957-1985)
昭和を代表する女優の一人、夏目雅子。
1984年、作家の伊集院静と結婚。二人には鎌倉との縁もあり、由比ガ浜にある「小花寿司」は、二人が通った店として知られています。店主夫妻は二人の結婚の媒酌人も務めたとされ、伊集院静ゆかりの品も残されています。
由比ガ浜周辺には、二人が一緒に歩く姿を写真に撮られたとされる路地もあります。今では特別な案内板などがあるわけではありませんが、実際に歩いてみると、細い路地と住宅が続く、いかにも鎌倉らしい日常の風景が残っています。


夏目雅子が亡くなった2年後の1987年、松竹は壺井栄原作の映画『二十四の瞳』を公開しました。監督は朝間義隆、主演は田中裕子。1954年に木下惠介監督・高峰秀子主演で制作された松竹映画『二十四の瞳』を、33年ぶりにリメイクした作品です。
この1987年版『二十四の瞳』には、夏目雅子が出演する予定だったともいわれています。
夏目雅子は1985年、急性骨髄性白血病を発症。治療を続けましたが、同年9月11日に亡くなりました。27歳という若さでした。
鎌倉市川喜多映画記念館(雪ノ下)
2010年 川喜多長政・かしこ夫妻が住んだ邸宅に開館(公式HP)
※館内は写真撮影禁止です!


川喜多長政(1903-1981)
川喜多かしこ(1908-1993)
川喜多長政が、25才頃に設立した貿易会社「東和商事(現東宝東和)」に”かしこ”が入社。
最初の仕事が、溝口健二の作品の英訳。
※溝口健二は1936年に日本映画監督協会を結成し、小津安二郎と親交を結ぶようになりました。
後に結婚。
新婚旅行でヨーロッパに行ったときに買い付けた映画がヒットし、次々と名作を日本に輸入するようになる。
1973年に川喜多長政の会社「東和商事」の映画部が制作会社・配給として、日本とドイツ初の合作映画「新しき土」を制作、原節子が出演しました。

現在の東宝東和(株)の本社は、東京にある川喜多メモリアルビル。米ユニバーサル作品の配給受託が中心で、ジュラシックパークやミニオンズなど。
また川喜多夫妻の長女「和子」は鎌倉市御成小学校に入学し、映画の勉強や仕事に打ち込み、伊丹十三と結婚。(後に離婚)
長政・かしこ夫妻、子の和子の墓は英勝寺の裏山墓地にある。
KAGOLABO選書・・・この記事をもっと楽しむ3冊
この記事に関連する書籍の中から、KAGOLABOがおすすめする3冊をご紹介します。
🥇 田中絹代と小津安二郎を知る
日本映画を代表する女優・田中絹代と、小津安二郎。二人の関係を軸に、映画人としての姿や当時の映画界をたどる一冊です。鎌倉で交わった映画人たちを、もう一歩深く知りたい方に。迷ったらまずこの一冊。
🥈 松竹大船撮影所の記憶をたどる
かつて大船に存在し、日本映画の黄金期を支えた松竹大船撮影所。その歴史や、そこで映画をつくった人々の記憶を伝える一冊です。鎌倉と映画人の関係を知るうえでも欠かせません。
🥉 小津安二郎の映画を、もう一歩深く知る
日本映画を代表する監督・小津安二郎。その作品世界や独特の映画表現を読み解く一冊です。笠智衆、原節子、田中絹代、佐田啓二など、小津作品を彩った俳優たちを知ったあとに読むと、映画の見え方がさらに広がります。

