今回は鎌倉に所縁のある人物、文豪「川端康成」にフォーカスを当ててみました。
小説家以外の一面が見られました。
目次
川端康成(かわばた やすなり)
1899(明治32)-1972(昭和47)年。小説家。初の鎌倉市名誉市民。
1935(昭和10|36才)年に鎌倉に転入。
1946(昭和21|47才)年から没年まで、長谷に居住。
1968(昭和43|69才)日本人初のノーベル文学賞を受賞
鎌倉を書いた有名な作品は「山の音(やまのおと)」と円覚寺佛日庵が登場する「千羽鶴」ですね。
読んだことないけど(汗)
北条泰時の子孫?
川端康成は、大阪市北区(天満)で生まれます。
鎌倉とは全く関係ありませんが、川端家が鎌倉幕府3代執権「北条泰時」の子孫だとされ、小さいときから「鎌倉」はあこがれの場所だったとか。
高校進学のために大阪から東京に出てきますが、鎌倉に来たのは36才の時。
林房雄、小林秀雄に誘われたのがきっかけだそう。市内を浄明寺、二階堂と転居し、昭和21年に長谷に転居。今の川端康成記念館の側です。
ちなみに二階堂に住んだ時の家主は蒲原有明(かんばらありあけ|象徴詩人)
それから亡くなるまでの人生後半は鎌倉で過ごすことになります。小さいときから頭のどこかに鎌倉があったんでしょうね。
川端康成記念会
現在は親族の方が住まれているということなので非公開ですが、甘縄神明神社のすぐ横が「川端康成記念会(旧川端康成邸)ですね。
※個人宅なのでMAPの掲載を控えます。
最近は、入口が鎖で閉鎖されていることが多いです。(なので表札すら見れない)
HP見る限り、記念館と言っても一般公開する施設じゃなくて、各地の展覧会へ作品等を貸し出す感じでしょうか。
事業内容にも愛蔵品等の保存および研究家等への公開とありますしね。
例えば、姫路文学館で「生誕120年 文豪川端康成と美のコレクション展」なんかを開催し、ここに川端康成がコレクションした国宝等が展示されてたようですよ。
川端康成仮寓跡
川端康成が長谷に住む前にいた二階堂の仮家。
「昭和20年から川端康成が有明の持ち家と知らずに住んでいた」と書かれています。
川端康成の主な代表作
伊豆の踊子
川端康成初期の代表作。
大学生の「私」が、伊豆旅行中に、伊豆大島からやってきた踊子と親しくなり次第に惹かれていく・・・
6回映画化されて、ヒロインの「薫」を、当時のアイドル的女優が演じています。
初めての映画化は1933年(昭和8年)、川端康成34才の時。
「恋の花咲く、伊豆の踊子」(松竹)白黒、サイレント映画です。
主演の薫を鎌倉山に住んだ松竹のスター女優「田中絹代(当時24才頃)」が演じています。
田中絹代
1909-1977 女優
松竹に入社、1965(昭和40)年に鎌倉山に新居を構える。
当時大船に会った松竹撮影所まで、大船-江の島間の日本初有料道路を利用して通っていたと思われます。
晩年の作品、1974年(昭和49年)に「サンダカン八番娼館 望郷」でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞。
雪国
越後湯沢にいる駒子(芸者)と、東京の文筆家「島村」との不倫旅行を描いた物語。
千羽鶴
川端康成が鎌倉に住んでいる時から書き始めた小説。
それもあってか、鎌倉が舞台になっています。
円覚寺の茶会の席で、菊治が亡き父の愛人(太田夫人)と関係を持ち、その娘(文子)とも・・・。
っていうドロドロな話です(汗)
山の音
こちらも川端康成が鎌倉(長谷)に住んでいるときに書いた小説。
主人公「尾形信吾」は、妻と息子夫婦と一緒に鎌倉に住んでいるという設定です。
信吾は鎌倉から東京の会社に通うサラリーマン。楽しみは息子の嫁「菊子」と過ごす時間・・・。
その当時、川端康成は出版社「鎌倉文庫」の幹部として鎌倉-東京間を行き来していました。
鎌倉文庫
1945年(昭和20)5月 鎌倉文士たちが蔵書を持ち寄って開いた貸本屋。
発案メンバーは久米正雄、川端康成、高見順ら。協力者に小林秀雄、里見弴、中山義秀、図書券の図案は横山隆一、大佛次郎、永井龍男、林房雄らが蔵書を出すなど、そうそうたるメンバーが関わった。
終戦を迎えて間もなく、出版社へ衣替えし東京へ進出した。
川端康成を深堀り
川端康成がコレクションした国宝
さて、小説家の川端康成さんは美術品のコレクター。小学校の時には画家を目指していたことも。
これは、川端康成のお父さん(本業は医者)が、文学や美術が大好きな人だった影響もありそう。
そして、絵画の国宝を2つも持っています。鎌倉でも15件しかないのに。。。。
紙本淡彩 十便図 池大雅筆
紙本淡彩 十宜図 与謝蕪村筆
これは二人の合作ということで十便十宜図とまとめて呼ぶことも多いみたい。
池 大雅(いけの たいが):1723-1776年。江戸時代の南画家、書家。
与謝 蕪村(よさ ぶそん):1716-1784年。江戸時代の俳人、画家。大阪の都島区生まれ。
→十便図(文化遺産オンライン)
→十宜図(文化遺産オンライン)
紙本墨画 凍雲篩雪図(とううんしせつず) 浦上玉堂筆
浦上 玉堂(うらかみ ぎょくどう):1745-1820年。江戸時代の文人画家。
岡山出身の人物ですが、晩年は京都に住んでいたよう、京都の本能寺にお墓があります。
→凍雲篩雪図(文化遺産オンライン)
合わせて、下記の用語を覚えておくと良いでしょう!
・淡彩(たんさい)|薄くいろどること。あっさりした彩色。
・墨画(ぼくが)|水墨画。すみえ。
・紙本(しほん)|紙に書いた書画や文書。
荏柄天神社
ご祭神が菅原道真っていう学問の神様の神社ですね。
境内に「かっぱの筆塚」があって、石碑の裏の文字は川端康成の揮毫です。
川端康成の交友関係
寡黙だったと言われてる川端康成さんですけど、人間関係つくりは上手だったらしく、交友関係はめっちゃくちゃ広いんですよね。
堀辰雄
「風立ちぬ」の原作者として有名な堀辰雄は友人。執筆のために別荘を貸してあげた。
永井路子
川端康成とは26才ほど年下。
小学館に入社し、編集の仕事をしながら歴史小説を書いていたようですが、その時?川端康成の担当で、自宅まで原稿を取りに足を運んでいたそうです。
1962年に鎌倉市に転居。1998年に鎌倉市名誉市民になっています。
名誉市民の二人が昔から繋がりがあったなんて不思議な縁ですね。
川端康成で鎌倉市にある国宝を2点繋げて知れましたね!感謝!