源翁禅師の殺生石伝説|鎌倉・海蔵寺の開山にまつわる伝説を詳しく

源翁禅師の殺生石伝説|鎌倉・海蔵寺の開山にまつわる伝説を詳しく

殺生石伝説の概要

鎌倉検定本の芸術・文化項目に伝説コーナーがあり、そこに掲載されている話ですが、他の書籍等も参考に話を膨らませて楽しみたいと思います。

玉藻前という美女

約1,300年前の中国(大陸)のお話。
金色の毛に覆われて九つの尾をもつ狐がいて、美女に変身して皇帝を虜にし、国を傾けさせました。
しかし、やがて正体を見破られて、逃げて日本に渡ります。

中国から日本へ

この狐、日本では「玉藻前(たまもまえ)」という美女に変身し、時の鳥羽上皇(第74代天皇:在位1107~1123年)の寵愛を得ますが、宮中で宴をひらいていると、帝に侍っていた玉藻前が金色の光を発し、天皇は気絶、以降重たい病気にかかってしまいました。

その原因を、陰陽師「阿部泰親(安倍晴明の子孫)に見破られて、玉藻前は下野国(現、栃木県)那須野原に逃げおちました。

今でも、那須高原には「殺生石」という観光スポットがありますね!

鳥羽天皇周辺の系図

鳥羽天皇は後白河天皇の父にあたります。

鳥羽天皇
 ┣------┳-----┳
崇徳天皇  後白河天皇  近衛天皇

大河ドラマ「平清盛」では、鳥羽天皇を「三上博史」さんが演じられていました。

坂東武者の狐退治

その後も、狐の仕業と思われる噂を何回も耳にした鳥羽上皇は、上総介(上総広常)と三浦介(三浦義澄)に妖怪退治を命じます。上総介の弓矢が見事射抜き、三浦介がとどめを刺して、妖怪を退治。上皇の病気も全快しました。

その時、狐の魂は石と化しましたが、なおも悪霊となって、触ったり近寄ると、人や鳥獣などの生き物を殺すので「殺生石」と呼ばれて恐れられるようになりました。

玉藻前をやっつけたのが、2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の登場人物でおなじみの、上総広常三浦義澄なので、この伝説の親近感が沸きますね。

時期的には、上総広常も三浦義澄も若いときかと思います。

玄翁禅師と殺生石

これを知った、室町時代の僧で鎌倉海蔵寺の開山「玄翁禅師(源翁禅師)」は、至徳2(1385)年、お経を読みながら鉄の杖で一撃を加えると、法力で殺生石は砕け散り悪霊は成仏、災いも止まったという。

この時、源翁禅師の使った鉄の杖が金槌のような形をしていたので、金槌を「げんのう」と呼ぶようになりました。

玄翁禅師(1329-1400)

なぜ殺生石を割った人物が玄翁禅師だったのか?

玄翁禅師は越後国生まれ、1371年に結城氏の招きで下野国で寺院を開いています。そんな縁もあって、当時は殺生石が近い場所にいたと思われます。

ちなみに海蔵寺を開山したのは1394年。殺生石を割った後に鎌倉に来たようです。

後日談、鎌倉地蔵尊について

玄翁禅師は三つに割れた石片の一つで地蔵菩薩を刻み、鎌倉に小さなお堂を建ててまつりました。

時は過ぎて、江戸時代初め頃。
この像を篤く信仰していた、江戸幕府の工事責任者で日光東照宮も手掛けた「甲良豊後守」は、夢でこの地蔵菩薩が現れ、「私を衆生済度の霊場 真如堂」に移しなさいと告げました。

豊後守はそれに従い、地蔵菩薩を真如堂に遷座。当初、鎌倉に安置されていたことから「鎌倉地蔵」という名が付いたとか。

※衆生済度(しゅじょうさいど)
仏教の言葉で、「衆生」は、生きとし生きるもの。「済度」は救い渡すという意味。衆生を迷いの苦しみから救って悟りの境地へ導くこと。

殺生石伝説ゆかりの地

殺生石

栃木県那須郡那須町湯本182

那須高原から那須ロープウェイ山麓駅を結ぶ「那須高原線」に殺生石があります。

活火山の茶臼岳を含む、栃木と福島の県境に連なる那須火山群一帯にあり、辺りには硫黄の匂いが立ち込めます。また、松尾芭蕉も訪れました。

海蔵寺(鎌倉市)

殺生石を三つに割り、その一つで地蔵菩薩を彫った源翁禅師が、鎌倉に開山した禅寺「海蔵寺」です。
東国花の寺(鎌倉7番)でもあり、ハギが有名です。

鎌倉花めぐり 9月 ハギ(萩)|宝戒寺、海蔵寺、妙高院(建長寺塔頭)ほか
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鎌倉地蔵尊(真如堂|京都市左京区)

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