今回は京都に行ったときに目についた、また鎌倉検定本にも掲載されている「小堀遠州」を取り上げてみることにしました。
目次
小堀遠州(こぼりえんしゅう)
1579-1647年。本名「小堀政一」
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。
物凄い色んな顔を持っているんですね。
京都では「茶道資料館」で名前を見かけ、鎌倉では「光明寺」の記主庭園で名前を見かけますね。
小堀遠州の略歴
いったい小堀遠州はどんな人生を送ってきたんでしょうか、ちょっと時系列で調べてみました。
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
天正7(1579)年 | 0 | 誕生(父:小堀正次:羽柴秀長の家臣) ※羽柴秀長は、豊臣秀吉の弟 |
天正13(1585)年 | 6 | 羽柴秀長の大和郡山城への移封に伴い、同じく移動 |
秀吉への給仕や黒田如水・長政父子との親交 また、父の勧めで大徳寺(春屋宗園)に参禅 | ||
文禄4(1595)年 | 16 | 秀吉の直参となり、古田織部に茶の湯を学ぶ |
慶長13(1608)年 | 29 | 駿府城普請奉行での活躍で「従五位下 遠江守」 ※遠江守の官位より、小堀遠州と呼ばれるようになる |
元和9(1624)年 | 45 | 伏見奉行に任じられ、庭園の褒められ加増、大名となる |
正保4(1647)年 | 69 | 茶の湯三昧で過ごし、伏見奉行屋敷にて死去 |
・茶の湯をプロデュース。世の中に名物として認知させるようにした。
→小堀遠州が有名にした茶道具群は中興名物に。
・晩年は茶の湯三昧な生活。遠州流茶道として続いている。
・小堀遠州がもたらした美意識は華道世界にも反映。華道遠州。
光明寺(鎌倉)と小堀遠州
光明寺にあるハスが見事な記主庭園。
鎌倉検定本には、この記主庭園は小堀遠州の流れをくむ人物の作庭と言われています。
つまり、小堀遠州が実際に造った訳じゃないんですね・・・。今まで間違った理解をしてました(汗)
上記の年表を見ても、小堀遠州が鎌倉へ来たような出来事は残っていませんし。。。
光明寺の開創は1240年頃なので、1579年生まれの小堀遠州はかなり後の人物ですね。
ちなみに記主庭園の名前になっている「記主」は、開山の然阿良忠(記主禅師)から取ってますね。
然阿良忠は浄土宗三祖という凄い人。
浄土宗の宗祖:法然上人
浄土宗の二祖:聖光上人(鎮西上人)
ちなみに浄土宗の総本山は京都・円山公園の北側にある知恩院です。
光明寺のHPには小堀遠州の名前は出てきませんが、他のHP等では
・池泉庭園「記主庭園」
・枯山水「三尊五祖の石庭」
の二つとも、小堀遠州作と書いちゃってる場合もあります。正しくは流れを汲むでしょう。
京都での小堀遠州
京都には小堀遠州作の庭として有名なものに下記の物があります。
金地院庭園(南禅寺塔頭)
南禅寺の塔頭。創立は応永年間(1394~1428)に足利義持(室町幕府第4代征夷大将軍)鷹峯に。
1605年に以心崇伝(南禅寺の中興開山)が現在地に移転。
小堀遠州を起用して庭園が完成。
遠州作庭の詳細な記録が残っていることから貴重な場所で国の特別名勝。
二条城二の丸庭園
NHK大河ドラマの葵 徳川三代で、2代将軍「徳川秀忠」が小堀遠州に二条城の庭を造らせてる。と、話す場面がありますね。
小堀遠州は藤堂高虎と親戚。藤堂高虎は徳川秀忠に使えた大名です。
孤篷庵(こほうあん)-大徳寺
また、書院座席に草案茶室を融合させた孤篷庵も有名です。
※京都・観光文化検定試験公式テキストブックより
大徳寺の塔頭、1612年に小堀遠州が龍光院内に建てた子院。
江戸時代は茶の湯(茶を振舞うこと)が社交の場として発展し、禅宗寺院の塔頭には多くの庭園(書院造庭園)と茶室、露地ができました。
※露地:茶室に付随する庭園の通称
御香宮神社(伏見区)
小堀遠州は幕府の作事奉行、伏見奉行として活躍しました。
※作事奉行:幕府における造営修繕の管理
※伏見奉行:伏見の民政管理、宇治・伏見・木津川の船舶取り締まり、京都御所の警備等
伏見奉行に就任した際、奉行所内に立派な庭園を造り、徳川家光から褒美として禄高5000石加増されて大名になりました。その後、伏見奉行所は取り壊され庭園は縮小、現在は、御香宮神社に庭石の払い下げを受けて新たに造園されました。
京都にある茶道総合資料館で見た、茶道具図鑑の特別展で、小堀遠州所有の物が多かった理由も何となく分かってきましたね。
いろんな人に仕えて、人と人との交流を茶の湯等で楽しんだ方なんでしょうね。