筋替橋|鎌倉御家人合戦 三浦 vs 安達 1247年宝治合戦の地(石碑を読む)

筋替橋|鎌倉御家人合戦 三浦 vs 安達 1247年宝治合戦の地(石碑を読む)

2020-07-17

今回は鎌倉の鶴岡八幡宮の東側にある「筋替橋」の石碑を読んでみました。
昔に川が流れていたのか?それとも今、暗渠になって下に川が流れているのか?

分かりませんけど、当時は橋が架かっていたんでしょうね。

筋替橋(すじかえばし)

筋替橋

「筋替橋」石碑の場所

石碑に書かれている文字は?

鎌倉十橋ノ一ナリ
寶治元年(皇紀一九〇七)六月三浦泰村一族ノ叛亂ニ際シ北條時頼ノ外祖タル安達景盛ハ其ノ一族ト共ニ兵ヲ率ヰ此ノ橋ノ北邉ヨリ泰村ノ第ヲ攻メシコト東鑑ニ見エタリ
又文二年(皇紀一九二五)三月鎌倉ニ於ケル商家ノ営業地域ヲ数ヶ所ニ限定セル觸書中ニ「一所須地賀江橋」トアルハ即チ此付近ノ事ナリ

昭和十四年三月建 鎌倉町青年團

※文平は文永の間違いだと思われます。

鎌倉十橋の一つである
1247年(宝治元年)6月 三浦泰村の一族の反乱の時に、北条時頼の外戚だった安達景盛は一族と共に兵を率いて、筋替橋の北側より三浦泰村の館を攻めたことが吾妻鏡に書かれている。
また、1265年(文永2年)3月 鎌倉における商業の営業地域を数か所に限定するというお触書所に「一か所は須地賀江(すじかえ)橋」とあるのは、すなわちこの付近の事である。

昭和14年3月建 鎌倉町青年団

※間違っていたらごめんなさい。

事前知識(漢字・用語編)

叛亂:現在の「反乱」

事前知識(歴史編)

宝治元年

1247年。ほうじ。1247-1249年。
後深草天皇、藤原頼嗣(将軍)、北条時頼(執権)の時代

文平二年(平→永)

1265年。ぶんえい。1264-1275年。
亀山、後宇多天皇、宗尊・惟康親王(将軍)、北条長時・政村・時宗(執権)の時代

三浦泰村

1184 or 1204-1247年。鎌倉幕府の有力御家人。筋替橋の近くに館が有ったとされています。
三浦泰村は三浦一族本家の最後の人物で、父は三浦義村

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安達景盛

生誕不詳-1248年。鎌倉幕府の有力御家人。
安達盛長(13人の合議制の一人)の嫡男。

鎌倉十橋

鎌倉にある橋で、「新編鎌倉志(江戸時代)」に書かれた重要な橋や伝説が残る10の橋のこと。
鎌倉名数史跡の一つです。

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三浦一族やぐら

1247年の宝治合戦で執権北条軍に滅ぼされた三浦一族のお墓とされる場所。
北条義時の法華堂跡の近くにヒッソリと存在しています。

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