三浦義村|頼朝死後の御家人闘争で三浦氏の地位を押し上げた有力御家人

三浦義村|頼朝死後の御家人闘争で三浦氏の地位を押し上げた有力御家人

2021-10-04

三浦義村(みうらよしむら)

1168?-1239。
鎌倉殿の13人(十三人の合議制)の一人、三浦義澄の次男(嫡男)で、三浦氏当主。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、山本耕史さんが演じられます。

三浦義村の簡易年表

北条義時の盟友ともされる三浦義村は1168年生まれだとすると、1163年生まれの義時とは5歳年下。

時期年齢出来事
仁安3(1168)年?0誕生(父:三浦義澄、母:伊藤祐親の娘)
元暦元(1184)年17平家追討
源範頼軍に、父「義澄」とともに出陣
建久元(1190)年23頼朝の上洛に供奉。右衛門尉に任官。
正治元(1199)年32梶原景時の変
景時に讒言された結城朝光がまず相談したのが三浦義村
元久2(1205)年38畠山重忠の乱
義村の命で、重忠の息子「重保」を由比ガ浜を誅殺させた
建暦3(1213)年46和田合戦
直前で和田義盛を裏切り北条方に寝返り、和田氏は滅亡した
健保7(1219)年52実朝暗殺
実朝を暗殺した公暁を征伐し、駿河守に任官する
承久3(1221)年54承久の乱
東海道方面の大将軍の一人として参画する
嘉禄元(1225)年58評定衆に幕府宿老として就任
貞永元(1232)年65御成敗式目の制定に署名
延応元(1239)年72死去

奉幣の使者として(吾妻鏡初登場)

寿永元(1182)年 8月11日

北条政子の安産祈願のため、奉幣の御使を伊豆・箱根や近国の神社に遣わした。

三浦義村(三浦平六) 安房東条神館(鴨川市天津 神明神社?)

その他にも、佐原義連が三浦十二天、梶原景時が相模一宮、千葉胤正が上総香取社など10か所に及ぶ

三浦義村周辺の系図

義村の母は伊藤祐親の娘。
義村の子「三浦泰村」の母は土肥遠平(父は土肥実平)の娘です。

三浦義明
 ┣------┳-------┳
杉本義宗   三浦義澄    佐原義連
 |      ┣-------┳
和田義盛   三浦義村    三浦胤義
        |
       三浦泰村

三浦氏当主は、子の泰村の時代に起った宝治合戦で安達氏に敗北し、佐原義連系に移ることになります。

三浦義村ゆかりの地

近殿神社(ちかたじんじゃ)

横須賀市大矢部にある近殿神社は、三浦義村公を御祭神とした神社です。

明治時代から、この付近にあった神社が合祀されたり移されたりしましたが、第二次世界大戦後に元の場所にもどされたということらしいです。

明治6年には村社に列格していることから、社務所も常に開いているわけではなく、村の鎮守でそれほど大きな神社ではありません。

福寿寺(三浦義村公開基)

三浦半島の衣笠からは遠く離れた三浦市の金田漁港付近にある、三浦義村が開基のお寺。
この地区は岩浦(最寄りのバス停も岩浦)で、岩浦山寿福寺で、臨済宗建長寺の末寺。

寺宝に三浦義村が葵擁した鎧、脇差等が保存。

また、一ノ谷の鵯越では地蔵菩薩が義村を導き、叔父の佐原義連と坂を馳せ下ったと、説明板に書いています。
(吾妻鏡には、搦手軍=一ノ谷攻めの主要な御家人に名前は載っていませんが・・・)

三浦義村公の墓

上記の福寿寺からほど近い場所にある三浦義村公の墓。
場所が分かりにくいのですが、岩浦バス停近くにある長い石段の上にあり、「三浦義村の墓」とコンクリートに書かれています。

階段を登った先にあるのが、説明板とお墓。

説明板には三浦義村公は、領内の開拓などに愛情を注ぎ領民に慕われたと書かれていて、鎌倉幕府内の御家人闘争を知略で潜り抜けた人物とは想像もつきません。

また、この地は先祖伝来の地で要害だったことから、上記福寿寺を開基、菩提寺としてお墓もその近くということらしいです。

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