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佐々木定綱(ささき さだつな)
1142-1205
近江源氏佐々木氏の棟梁「佐々木秀義」の子。佐々木四兄弟の長男。頼朝の挙兵を当初から助ける。
4男に宇治川の先陣争いを演じた高綱がいる。
佐々木定綱の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
康治元(1142)年 | 0 | 誕生(父:佐々木秀義、母:源為義の娘) |
平治の乱 敗走後、父秀義は渋谷荘、定綱は宇都宮に客居 | ||
治承4(1180)年 | 39 | 平家軍の頼朝征伐の件を、頼朝に知らせる |
頼朝の挙兵 石橋山の戦いで敗れるも、富士川の戦いで勝利、佐々木庄を安堵 | ||
文治3(1187)年 | 46 | 度重なる軍功により、近江守護となる。 |
建久2(1191)年 | 50 | 佐々木荘で延暦寺と貢納を巡り争い(建久二年の強訴) 次男「定重」が刃傷し神鏡を破損、定綱は薩摩国へ配流 |
建久4(1193)年 | 52 | 召還され鎌倉に戻り、近江守護へ復職 |
建久6(1195)年 | 54 | 東大寺供養のために上洛 |
元久元(1204)年 | 63 | 従五位上に叙せられる |
元久2(1205)年 | 64 | 病気により死去 |
頼朝挙兵前夜と佐々木四兄弟の動向
治承4(1180)年8月10日
佐々木秀義が、嫡男の佐々木太郎定綱に、先日大庭景親と話した内容(平家は頼朝を中心とした謀反の動きを察知している)を頼朝に伝えるように遣わした。
定綱は近年宇都宮にいて、最近渋谷(秀義がお世話になっている渋谷重国の所領)に来ていた。
翌 8月11日
佐々木定綱が父秀義の使者として北条に到着。その話をし称賛された。
同年 8月13日
定綱は明朝に帰ると伝えると、頼朝は引き留めたが、甲冑を着けて参上すると伝えたら帰国を認めた。
「山木兼隆誅殺で挙兵の始めとしたいので、来る16日には必ず戻ってくるようにと」
同年 8月16日
約束の日に佐々木兄弟は参着しなかった。人数が少なく兼隆誅殺を延期しようかと躊躇った。
佐々木は渋谷に同心するのでは、先日帰さない方がよかったのでは?と頼朝は後悔していた。
翌 8月17日
午後2時に佐々木四兄弟が洪水の為に遅れて参着。定綱、経高は疲れた馬に乗り、盛綱と高綱は徒歩だった。
頼朝は感動の涙と、今朝の合戦が出来なかったことを残念に思うと。佐々木四兄弟は謝罪した。
定綱、延暦寺強訴より復帰
上記の年表のように、 佐々木荘で延暦寺と貢納を巡り争い(建久二年の強訴)が発生。
定綱次男の「定重」が刃傷し神鏡を破損し、定綱は薩摩国へ配流が決まった。
建久4(1193)年 4月29日
先月12日に流人らが召し返されその中に佐々木定綱がいると、一条能保から申し送られ、定綱の弟、経高・盛綱もそのことを話した。挙兵当初からひたすら勲功を挙げ寵愛していたので頼朝はとても喜ばれた。
佐々木定綱周辺の系図
佐々木爲俊 源為義
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佐々木秀義(1112)===== 源為義の娘 源義朝
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定綱(1142) 経高(?) 盛綱(1151) 高綱(1160) 義清(1160以降)
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広綱 信綱
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重綱(大原氏) 高信(高島氏) 泰綱(六角氏) 氏信(京極氏)
佐々木定綱の子孫は、鎌倉幕府後半で活躍するバサラ大名の「佐々木道誉(京極氏)」、戦国時代などで活躍した六角氏などに繋がります。
佐々木氏(近江源氏)ゆかりの地
長命寺(滋賀県近江八幡市)
西国三十三カ所第31番札所。
近江守護だった「佐々木定綱」が戦死した父の菩提を弔うために、平安時代後期に本堂をはじめ、釈迦堂・薬師堂・太子堂・護摩堂(ごまどう)・宝塔・鐘楼・仁王門などを建立した。