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源仲章(みなもとのなかあきら)
生誕不詳-1219 宇多源氏、源雅信(左大臣|藤原道長の妻の父)の後裔。
後鳥羽天皇に仕えつつ、鎌倉幕府の御家人としても活躍。
源実朝の教育係として仕えたが、その関係もあり、鶴岡八幡宮にて公暁(実朝の甥)に殺害された。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、生田斗真さんが演じられます。
源仲章の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
生誕不詳 | 誕生 | |
後鳥羽上皇に仕える | ||
建仁3(1203)年 | 阿野全成の3男「頼全」を処刑 | |
元久3(1206)年 | 鎌倉に下向し、源実朝の教育係となる | |
建保4(1216)年 | 政所別当に任じられる | |
建保7(1219)年 | 源実朝の右大臣拝賀の日、鶴岡八幡宮で公暁により殺害される |
吾妻鏡より
源頼家が、頼全の誅殺を命令する
阿野全成の息子「頼全(らいぜん)」は、父が討たれたとき在京していたが、野心を抱いていると噂があったため、京にいる御家人たちに、誅殺を命令したようです。
建仁3(1203)年 6月24日
大江能範(内舎人|うどねり)が使節として上洛。阿野全成の息子「頼全」を誅殺するように、源仲章(相模権守)、佐々木定綱(左衛門尉)に命じるため。
同年 7月25日
源仲章の使者が京都から到着、「去る16日、在京御家人らを動員して頼全を探し出し誅殺しました」と
実朝の御侍読として登場
源仲章は、源実朝の教育係として、元久3年の読書初めに御注孝経(唐の幻宗が撰述した「孝経」の注釈書)を持参し、読書始を行い、褒美を頂いています。
建仁4(1204)年 正月12日
源実朝(将軍家)の御読書始めが行われた。源仲章(相模権守)が御侍読(先生)だった。仲章は優れた文章書きではないため、才知の誉はないが、好きで書籍を集め、様々な方面の学問に優れていた。
御読合の後、砂金50両、御剣一腰を仲章に与えた。
元久3(1206)年 正月12日
今日、源実朝(将軍家)の御読書始(年初めの勉強会)が行われた。束帯の源仲章が御侍読(師匠)として御注孝経(ぎょちゅうこうきょう|中国の書物)を寝殿の南面に持参した。布衣の実朝がお出ましになり、読書始が終わって、仲章は鞍を置いた馬を賜った。
源実朝の鶴岡八幡宮参詣に供奉
建保2年に実朝の八幡宮参詣に供奉しますが、源仲章は弾正大弼(だんじょうたいひつ)。
弾正大弼は、律令で弾正台の次官にあたります。弾正台は監察・治安維持などが主要な業務です。
建保2(1214)年正月22日
源実朝(将軍家)が束帯を着て牛車で鶴岡八幡宮に参詣された。
伊賀朝光が御剣を持ち、佐々木信綱が御調度を懸けた。
北条義時、北条時房、中原広元、北条泰時、源仲章(弾正大弼)、源親広、二階堂行光、小山朝政、三浦義村、結城朝光らが供奉した。
源仲章の最期(実朝右大臣拝賀)
源実朝の右大臣拝賀が終わった時、北条義時の身代わりのような形で、実朝と一緒に公暁に暗殺されてしまいました。
建保7(1219)年 正月27日
源実朝が右大臣の拝賀のため、鶴岡八幡宮に参られた。
行列 殿上人(2列) 文上博士(源)仲章朝臣
実朝が楼門に入られたとき、北条義時は急に心神が乱れ、御剣役を仲章朝臣に譲って退出。
夜になって神拝の儀式が終わって、実朝が退出したところ、鶴岡八幡宮別当の阿闍梨公暁が石段の近くに隙を見て近寄り、剣をとって実朝を殺害した。
※この日には仲章が斬られたことは書かれていません。
同年 2月8日
北条義時(右京兆)が大蔵薬師堂(現覚園寺)に参詣。この寺は霊夢のお告げで義時が創建。
先月27日、戌の刻(20時頃)に実朝に供奉していた時、白い犬が側にいるのを見た後に心神が乱れ、御剣役を源仲章朝臣に譲り退出。
しかし義時が御剣役を務めることを知っていた公暁は、変わった仲章の首を斬った。その時、大蔵薬師堂の戌神は堂の中にいなかったという。
源仲章周辺の系図
宇多天皇
⋮
源雅信
⋮---倫子=====藤原道長
⋮
源光遠=====母不詳
|
源仲章 ※後鳥羽上皇の側近
|
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
源仲章周辺の系図は良く分かっていませんし、有名な子孫に繋がる記録もなさそうです。
宇多天皇の流れを汲むと言うことで、途中で藤原道長の妻となった源倫子が出てきますが、こちらについては、2024年の大河ドラマ「紫式部」で深堀してみたいと思います。