木曽義仲|松尾芭蕉も惚れ込んだ人生、頼朝のライバルにして従兄弟

木曽義仲|松尾芭蕉も惚れ込んだ人生、頼朝のライバルにして従兄弟

2021-09-25

木曽義仲(きそ よしなか)

1154-1184。
東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男。幼名「駒王丸」。平家物語では朝日将軍とも。

出生地は大蔵館(義賢が館を構えた場所|現比企郡嵐山町)と伝わる。
父が殺害された後、乳父の中原兼遠の庇護下で信濃国木曽谷で育つ。

以仁王の挙兵を継承し、源氏一門では一番最初に上京したが、京都の治安維持に失敗し後白河法皇と対立。
最後は、鎌倉の源頼朝軍に滋賀県で討伐された。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、青木崇高さんが演じられます。

木曽義仲の簡易年表

以仁王の挙兵によって、目覚ましい活躍をみせ、たちまちにして滅亡する人生です。
木曽の田舎の山奥で20年近くを過ごした後の、京都滞在はなかなか厳しいものがあったのでしょう。

時期年齢出来事
久寿3(1154)年0誕生(父:源義賢)
2父義賢が、従兄弟の悪源太義平に討たれ、義仲は信濃国へ逃亡
治承4(1180)年27以仁王の挙兵
異母兄の仲家(頼政の養子)が、源頼政と共に宇治で討死
寿永2(1183)年30木曽義高(嫡男)を人質として鎌倉に送る事で頼朝と和睦
倶利伽羅峠の戦いで平家の北陸追討軍を破る
源行家と共に入京。後白河法皇に平氏追討を命じられる
法住寺合戦
院の政庁「法住寺殿」を焼き討ちにし、後白河法皇を捕縛。
寿永3(1184)年31鎌倉軍(源範頼義経軍)と戦い、粟津の戦いで討ち死にした

上洛後の義仲から追討されるまで

義仲は、上記の年表によると2歳から30歳まで、木曽の自然の中で育てられ、みやびやかな都のてぶりをはじめ、朝廷内のしきたりなどは良く知りません。

行動や言葉も荒っぽく、京の人々には滑稽に見えて、やがて軽蔑に変わっていきました。

猫魔という地名に住んでいたことから「猫魔中納言」と呼ばれていた中納言「藤原光隆」
猫魔殿がみえると、公卿にも拘わらず義仲は「ねこが人間に会うのか?ガハハハ」と通し、評判を落とします。

牛車の乗り方も知らず「義仲はなんともの知らず」と宮仕えの人たちも悪口を言うように。

京の都では木曽の兵が人々に乱暴。神社仏閣を壊し、モノを奪い取る。

後白河法皇も心配されて「おまえの兵の乱暴ぶりに町の人々は不安がっている、しっかり取り締まれ」の注意も聞かず、反論し、御所「法住寺殿」に火をつけるしまつ。

こんなことから、後白河法皇は鎌倉の源頼朝に助けを求め、木曽義軍の仲追討が始まります。

木曽義仲の人望(木曽四天王他)

京では嫌われ者だった義仲も、小さい頃から長年共に育った家族同然の家臣は、義仲に最後まで付いていきます。

義仲四天王:今井兼平(乳兄弟)、樋口兼光(兼平兄)、根井行親、楯親忠(根井行親の子)
 +巴御前(愛妾)

巴御前

6,000騎ほどの一条忠頼軍に囲まれ合戦し、50騎にほどになってしまった義仲軍。
その中、巴御前は太刀を振り回し義仲を守っていました。

「お前は女だから、すぐどこかへ落ちていけ。自分は自害する。最後まで女を連れていたなど言われたくない」
それでも去ろうとしない巴御前に義仲は叱ると

「では、強敵を倒して義仲殿に最後の戦いをご覧いただきます」と、30騎程の敵兵に一人で飛び込み大将を倒して姿を消しました。その後、和田義盛に預けられ尼になったと。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、秋元才加さんが演じられます。

今井四郎兼平

残った今井四郎は、木曽義仲に自害する時間を与えるために攻め寄せる50騎ほどに向かって、矢を討ち刀を振り敵を蹴散らします。

しかし木曽義仲は馬ともども泥田に足をとられ、もがいている隙に「三浦の石田次郎為久が、木曽殿を討ち取ったぞ」と。

その声を聞いた今井兼平は、太刀先に義仲の首らしいものが突き刺さっているのが見え

「殿を失ったいま、だれのために戦うのか。今こそ自害する手本を示す」

といって、太刀の切っ先を口にくわえて、馬上からうつぶせになって地面を飛び降り、自らの刀に貫かれて見事な死を遂げました。

木曽義仲周辺の系図

源義賢の父「源為義」には、源義朝(義平、頼朝の父)がいる。

源為義
 ├-----------┬
源義朝         源義賢   中原兼遠(養父)
 ├-----┬     |┌----┤  |------┬------┬
源義平   源頼朝   木曽義仲     樋口兼光   今井兼平   巴御前?
             |
            木曽義高

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

父「義賢」を討ったのが、甥「義平」。頼朝と義仲は従兄弟の関係です。
木曽義仲に最後まで付き従った、今井兼平や巴御前は乳兄弟の関係です。

木曽義仲周辺の系図(詳細)

源頼政         源義賢            
 ├---(養子)---┐├-------┐
源仲綱         源仲家    木曽義仲
 |
源宗綱

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

養子 源仲家(木曽義仲の同母兄)

久寿2(1155)年の大蔵合戦で、源義賢が甥の源義平に襲撃され戦死。
当時、京都に居た仲家(義賢の嫡男)は、頼政に保護されて養子となって育った。

その関係もあり、以仁王の挙兵では養父の源頼政と行動を共にして、宇治平等院辺りで戦死した。

木曽義仲ゆかりの地

大蔵館跡(大蔵神社)

▶ 埼玉県比企郡嵐山町大蔵|🅿なし

木曽義仲の父、東宮帯刀先生源義賢の居館跡です。館の規模は東西170m、南北200mあまり。
御所が谷とか堀之内と呼ばれる。

父義賢が甥の悪源太義平に討たれて木曽に落ち延びる間の2年間はココに住んだと考えられます。

源義賢の墓

▶ 埼玉県比企郡嵐山町大蔵|🅿あり

木曽義仲の父、源義賢(みなもとのよしかた)の墓と伝わる五輪塔

鎌形八幡神社(木曽義仲産湯)

▶ 埼玉県比企郡嵐山町鎌形|🅿あり|

坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡宮を勧請したのが始まり。
境内には木曽義仲産湯の清水がある(現在の手水舎)

班渓寺(義仲誕生の地・義高菩提寺)

▶ 埼玉県比企郡嵐山町鎌形1907|🅿なし(ただし寺前道路広い)|

山吹姫がわが子「義高」の菩提を弔って建てたのがこの寺。
また、源義賢の下屋敷がココ鎌形で、小枝御前を住まわせて、義仲(幼名駒王丸)が生まれた場所。

伝山吹姫の墓

木曽義高の母、山吹姫と言われる墓。

宇治川・瀬田川(合戦場)

後白河法皇から発せられた木曽義仲追討で、源頼朝軍(範頼義経)と木曽義仲軍が京都近郊で戦った場所。
瀬田川は範頼軍が、宇治川は義経軍に攻め込まれ、共に木曽義仲軍は敗走した。

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義仲寺(木曽義仲公墓所)

義仲寺(ぎちゅうじ)は、滋賀県大津市にある朝日将軍木曽義仲公の墓所。
境内には、木曾義仲に仕えた側室「巴御前」の塚、側女「山吹御前」の塚もあります。

義仲寺|鎌倉勢に追われた義仲公が討ち死した地に建つ、木曽義仲公の墓所
義仲寺(ぎちゅうじ) 昔は、粟津ヶ原といった琵琶湖に面した景勝地にある、木曽義仲公のご墓所。 https://twitter.com/KagolaboJp/st…
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