【私有地】永安寺跡|室町幕府と対立した、第4代鎌倉公方自刃の場所(石碑を読む)

【私有地】永安寺跡|室町幕府と対立した、第4代鎌倉公方自刃の場所(石碑を読む)

永安寺跡(ようあんじあと)

今回は「永安寺跡」の石碑を読んでみることにしました。
ちなみに、この石碑、現在は私有地内にあるので、実際に石碑を見ることは出来ません。

なので、ネット上にある情報を参考に、石碑に書いている内容を書きだしました。

※こういう状態は本当に残念です。土地を購入するときに道路沿いとかに移設するとか、一般の方が見れるようにして欲しいと思います。

ちなみにこのような私有内にあり、自由に見れない石碑が2~3か所あるようです。

「永安寺跡」石碑の場所

!永安寺跡の石碑は私有地にあるため、自由に見ることは出来ません。

おおよその場所ですが、瑞泉寺手前にある天園ハイキングコースへ入る道。
これを真っすぐ登って行くとT字路になるのですが、その右側に大きな庭のような私有地があります。

道路上から、かすかに石碑の後ろ姿のようなモノが見えてるような、見えていないような感じ。

しかし、大切なことは、鎌倉公方の菩提寺だった「瑞泉寺」の近くに永安寺が建てられたという事。永安寺は瑞泉寺の塔頭だっだ様です。(報国寺のHPより)石碑は見れなくても、どの辺に建っているかが分かればそれで充分なのかもしれません。

石碑に書かれている文字は?

永安寺は二階堂谷に属す 関東官領足利氏満の開基にして其の開山は曇芳和尚なり 和尚名は周応 夢想国師の法嗣にして建長寺瑞林庵の始祖たり 氏満 応永五年十一月四日を以て卒す 其法号を永安寺壁山全公と称す 寺号此に基く 氏満の孫持氏時の将軍義教と隙あり 兵敗れ勢窮り 此寺に篭居して自殺す 時に永亨十一年二月十日なり 此日寺観又兵火に罹りて廃滅に帰す 此所は実に其址なり

大正十五年3月建 鎌倉町青年團

永安寺は二階堂谷にあります。
関東管領(今は鎌倉公方)足利氏満が開基、開山は曇芳和尚。
和尚の名は周応、夢窓国師の弟子で、建長寺瑞林庵の初代です。

氏満は応永5年11月4日に亡くなり、その法号を「永安寺壁山全公」と言いました。寺院の名称はこの法号から来ています。
氏満の孫である持氏の時代、室町将軍「足利義教」と争い、敗れ進退窮まってこのお寺に籠って自害しました。その日は永享11年2月10日でした。
この日、寺は戦火によって跡形もなく焼けてしまいました。ココはその場所になります。

大正15年3月建 鎌倉町青年団

※間違っていたらごめんなさい

事前知識(漢字・用語編)

法嗣:ほうし|弟子、師匠の教えを受け継いだ人

事前知識(歴史編)

足利氏満(第2代鎌倉公方)

1359-1398、第2代鎌倉公方
従兄で第3代室町将軍「足利義」の偏諱を受けて氏満と名乗りました。

扇ガ谷の海蔵寺は、足利氏満の名を受けて上杉氏定が源翁心昭を招いて再建したお寺。

曇芳周応(どんぽう しゅうおう|和尚)

?-1401。夢窓疎石に師事にして法を継ぎました。
足利持氏の祖父に当たる人物。

鎌倉では、寿福寺、大本山円覚寺第58世歴代管長・お隣の建長寺第59世歴代管長も務めている祖師であり、埼玉県加須市にある、足利家ゆかりの寺院「龍興寺」も再建しました。

足利持氏(第4代鎌倉公方)

1398-1439、第4代鎌倉公方
第4代室町将軍「足利義」の偏諱を受けて持氏と名乗りました。



関東管領や室町将軍と対立し、上杉禅秀の乱、永享の乱の中心人物。戦乱に明け暮れた人生を送りました。

1.足利尊氏
 ┣-------------┓        
2.足利義詮(室町将軍)   1.足利基氏(鎌倉公方)
 |             |
3.足利義満         2.足利氏満
 ┣------┓      |
4.足利義持  6.義教     3.満兼
        |      |
       8.義政     4.持氏
        |      ┣-----┳-----┳
       9.義尚     安王丸   春王丸   5.成氏

足利持氏が敗れた後、安王丸、春王丸を奉じて、鎌倉府再興の為立ち上がったのが結城氏朝ら。
曲亭馬琴作の「南総里見八犬伝」は、この結城合戦から物語が始まります。

南総里見八犬伝|長編小説から学ぶ、鎌倉に攻め込んだ安房里見氏について
南総里見八犬伝とは 江戸時代後期(1814刊行-1842完結)に、曲亭馬琴(滝沢馬琴)が28年かけて完成させた長編小説。 完全空想ものではなくて、歴史上の出来事…
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永安寺(世田谷区)

足利持氏が自害しその後廃れた、鎌倉二階堂谷(大蔵谷)にあった「永安寺」ですが、家臣の「二階堂秀高入道」によって、場所を変えて創建されました。

住所が世田谷区大蔵と鎌倉の大蔵谷と同じ地名だということが、この場所を創建の地として、同じ寺号「永安寺」を用いたようです。

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