藤原泰衡(ふじわらのやすひら)
1155-1189
奥州藤原氏、最後の第4代当主。父秀衡の遺言に従い、源義経を匿い頼朝に攻め滅ぼされる。

藤原泰衡の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
久寿2(1155)年? | 0 | 誕生(父:藤原秀衡、母:正室) |
文治3(1187)年 | 33 | 父秀衡死去により、家督を継ぐ |
文治5(1189)年 閏4月 | 35 | 義経の衣河館を襲撃し、自害へと追いやる |
8月 | 阿津賀志山の戦い 総大将の国衡が敗れ、平泉が灰儘に帰す | |
9月 | 郎党、河田次郎に裏切られ殺害 |
家督を継いでから約2年で、栄華を誇った平泉を頼朝に滅ぼされてしまうので、ダメ棟梁の落胤を押された感がありますが、最後まで戦うことなく話し合いでなんとか収められないかと苦心されたのではないでしょうか。
それ以上に、海千山千の頼朝の政治力が一枚上手だったということかもしれませんが。
藤原泰衡の最期
藤原泰衡の最期は、譜代の郎党「河田次郎」に裏切られるというものでした。
その後、河田次郎は頼朝の御家人になることを願うも、主君を討つ裏切り者ということで殺されてしまいます。
文治5(1189)年 9月3日
泰衡は数千の軍兵に囲まれて、隠れ逃げ、北海道(夷狄島|いてきじま)を目指し岩手県北部に到着。数代に渡って従った郎党「河田次郎」を頼り、秋田県大館まで来たところ、河田に裏切られ首を取られた。
河田はこの首を頼朝に献上しようと、頼朝の所へ馬を走らせた。
藤原泰衡の系図
父である藤原秀衡には複数の子がいますが、長子だが庶子の国衡と、正室の長男だった泰衡の二人が重要人物です。
藤原清衡(奥州藤原氏第1代)
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藤原基衡(第2代)
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藤原秀衡(第3代)=====正室
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藤原国衡 藤原泰衡(第4代)
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
兄 藤原国衡(ふじわらのくにひら)
生誕不詳-1189
藤原秀衡の長男。母が側室の為、後継者からは除外されるも、側室とはいえ身近な一族の娘で、かつ、武勇に優れていたため、周りの期待も大きかった。
鎌倉軍との阿津賀志山の戦いで討死する。
藤原泰衡ゆかりの地
永福寺(鎌倉市)
奥州平定で犠牲となった源義経や藤原泰衡らの霊を供養するために、奥州の地で見聞した中尊寺、毛越寺などを模した壮大な寺。
室町時代の火災以降、再建されることなく、江戸時代には廃寺に。
現在は、国指定史跡の永福寺史跡公園となっています。

