長沼宗政|有力豪族小山一族の人物(下野国)、坂東武者らしい荒くれ者の一面も

長沼宗政|有力豪族小山一族の人物(下野国)、坂東武者らしい荒くれ者の一面も

長沼宗政(ながぬま むねまさ)

1162-1240 下野国の有力豪族「小山政光の次男」
兄の小山朝政と、弟の結城朝光と共に鎌倉幕府の御家人として源頼朝に仕える。

2人の兄弟と違い、気性が荒いのか、吾妻鏡でも実朝に対して悪口を言ったりする場面が記録されています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、長沼宗政役を「清水 伸」さんが演じられます。
 ※ニトリのCMでおなじみ!

長沼宗政の簡易年表

時期年齢出来事
応保2(1162)年0誕生(父:小山政光)
寿永2(1183)年22源頼朝に従い、平家追討に従軍する       
文治5(1189)年28奥州合戦に随行し、奥州藤原氏が滅亡
建仁3(1203)年42比企能員の変、北条方として戦う
元久2(1205)年44畠山重忠の乱、北条方として戦う
承久3(1221)年60承久の乱、北条方として戦う
仁治元(1240)年79下野長沼荘で死去

吾妻鏡より

梶原景時の訴状の件で兄に叱られる

多くの御家人が梶原景時を排斥するために、訴状に姓名を記入し花押を添えたが、長沼宗政は花押を添えなかった。弟の結城朝光が讒言されているというのに、梶原氏の権勢に怯んだ奴に武芸を自慢する資格はないと兄の小山朝政に言われ・・・。

正治2(1200)年 2月 6日

梶原景時の与党を捕まえたことによる恩賞等の審議の後に御家人同士が侍所に集まって雑談していた。梶原景時の最期は上洛の途中で誅殺とか景時らしくないとか。。。

そんな雑談の中に、小山朝政はこのようなことを言った
「弟の五郎宗政は、長年、当家の武勇は独り宗政にあると自賛していたが、今回は景時の権勢を恐れて訴状に花押を押さなかった。これは当家の名を失墜させたから恥じるべき、今後はこのような発言は慎め!」と。 普段、口が荒く悪口を言う宗政だが、返答が出来なかった。

源頼家の狩猟に同行

悪口や素行が悪いだけでなく、将軍の命令にはチキンと従って狩猟に同行したりもしています。

正治2(1200)年 閏2月 8日

源頼家(羽林)は狩猟のために伊豆国藍沢原に向かった。
北条時連(後の時房)三浦義連、和田胤長、長沼宗政結城朝光海野幸氏ら以下の射手60人が特別の仰せがあってお供した

源実朝に対して暴言を吐く

長沼宗政は、畠山重忠の末子で僧の「重慶」に謀反の疑いありとして、生け捕りの命を受けたが誅殺して戻ってきた。そのことに対して実朝が嘆かれたが、宗政はそんな弱腰で・・・・、と今まで鬱憤を晴らすかのように反論(暴言)を吐き散らかしました。

建保元(1213)年 9月19日

日光山別当の使者が「故畠山次郎重忠の末子で僧の重慶が、当山の麓に篭居して祈禱に尽くしています、これは謀反を企てているのに違いないでしょう」

その間、長沼五郎宗政がその場に祗候していたので、重慶を生け捕るようによくよく命じられ、直ちに下野国に出発した。

同年 9月26日

夕暮れ、宗政が下野国から鎌倉に到着。重慶の首を斬って持参したと。
すると、源実朝は使者を通じて「まずは生け捕りにして、事情聴取をして処分すべきところ、それ以前に誅殺するとは軽はずみな行為ではないかと」嘆かれた。

しかし宗政は怒って反論
「生け捕るのは簡単だが、どうせ女性や尼らの申請で赦免されるだろうと思ったので誅殺したまで。そんな事で、今後誰が忠節を尽くしますか?これは将軍家の間違いです。頼朝さまの時代は武備を重んじられた。当代(実朝)は歌や蹴鞠を業として武芸は廃れている。女性を重んじ勇士はいないかのよう。没収の地は勲功の者でなく、多くは女房らが賜ってる」

などなど、この他の暴言は数え切れなかった・・・。使者は何事も言わず座を立った。

同年 閏9月 16日

小山朝政の申請によって、弟の長沼五郎宗政の咎めを許され出仕した

兄が弟の尻ぬぐいって感じですね・・・。

長沼宗政周辺の系図

長沼宗政は小山政光を父に持つ小山一族の庶流。
本領の長沼荘から長沼宗政と名乗る。

兄弟には小山朝政と、結城朝光が居て、いずれも鎌倉幕府に多大な貢献をした御家人。

太田行光
 ┣-------┓
下河辺行義   小山政光==============寒川尼
 |       ┣------┳      |
下河辺行平   小山朝政   長沼宗政   結城朝光
                |       |
               長沼宗時   結城朝広

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

長沼宗政の母は不明。長沼宗時という子もいるが、妻はだれかは不明。
下河辺行平とは従兄弟の関係になります。

長沼宗政(小山一族)ゆかりの地

長沼宗政の墓

宗光寺の近くにある「長沼宗政の墓」と伝わる墓があります。

宗光寺

天台宗別格本山として、関東の比叡山として開基。

1190(建久1)年に長沼宗政が源頼朝の本願により鎌倉大御堂を遷し、新御堂を建立。
1351(観応2)年に長沼宗恒が祖父長沼宗光の菩提のために宗光寺を建立しました。

宗光寺は長沼政宗の居城だった「長沼城」の跡地と考えられています。

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