土御門通親(源通親)|九条兼実の政敵、婚姻関係を使い政界をのし上がった村上源氏

土御門通親(源通親)|九条兼実の政敵、婚姻関係を使い政界をのし上がった村上源氏

2022-06-06

土御門通親(つちみかどみちちか)

1149-1202 源頼朝より2歳年下
村上源氏(嫡流)の流れを汲む公卿。政敵の九条兼実とは同い年。

永井路子さんが書かかれた「源頼朝の世界」の中、源通親のことも書いてあり参考になります。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、関智一さんが演じられます。

村上源氏とは

21ある源氏の系統の一つ。
名前の通り、第62第村上天皇が臣籍降下させた系統で、もっとも格が高いとされたのが公家となった村上源氏。※ちなみに清和源氏は多くの武家を出した系統で第56代清和天皇が臣籍降下させたことに始まる

村上天皇の第七皇子「具平親王(ともひら)」-「源師房(村上源氏の祖)」と続き、源通親に繋がる。

源通親の4人の子供が、堀川家、久我家、土御門家、中院家の祖となりました。
※源通親の4男「土御門定通」が土御門家の祖とされます。

また、陰陽師の安倍氏(安倍晴明を祖とする嫡流)にも土御門家がありますが、全くの別物です。

土御門通親の簡易年表

時期年齢出来事
久安5(1149)年0誕生(村上源氏、父:源雅通)
保元3(1158)年9従五位下に叙位
平治元(1160)年11平治の乱
平教盛の娘を妻にして、平家との関係を深める
治承4(1180)年31参議(公卿)に昇進
寿永2(1183)年34平家と決別、後鳥羽天皇の践祚に尽力
後鳥羽天皇の乳母「藤原範子」を妻にする
建久2(1191)年42覲子内親王(生母:丹後局)が院号宣下、丹後局と関係強化
建仁6(1195)年46養女「在子」が、後の土御門天皇を産む
内大臣に、松殿基房の娘「伊子」を妻にし道元(曹洞宗開祖)を産む
建仁2(1202)年54死去

吾妻鏡より

捕らえれた平家に流罪を言い渡す

吾妻鏡での源通親の初登場。中納言で上卿(本政務の筆頭者)だったことが分かります。
平時忠や、法眼能円の配流先を言い渡しています。(命じたのは下級役人)

今まで平家一門の娘を嫁に貰っていたのに、落ち目と見るや後白河院に近づき、新しく妻となる藤原範子の元夫「能円」も流罪にしています。

文治元(1185)年 6月2日

先月20日、配流の官符が下された。上卿(しょうけい)の源中納言通親が参陣、頭弁光雅がこれを命じた。その目録が、本日鎌倉に到着した。

流人
前大納言平時忠(能登)、、、、、法眼能円(備中)

源頼朝を右大将に任ずる

源頼朝が上洛した1190年(建久元年)に、頼朝は大納言(亜相)と右大将に任じられた(後に辞退)
その手続きに関する上卿も源通親が行っています。朝廷側の取りまとめ役といった感じでしょうか。

建久元(1190)年 11月24日

藤原兼雅が右大将を辞任。その夜に、空席となった右大臣に頼朝が任じられた。藤原経房が奉じた院宣が下さされた。夜になって除目が行われた。

右近衛大将源頼朝

上卿は、検非違使別当源通親卿。頼朝の他に任官の人はいなかった。

以降、鎌倉幕府と朝廷との間でのやり取りで、源通親の名前は吾妻鏡に登場するものの、頼朝と通親が二人で直に何かをしたような記載はありませんでした。(見落としてるかもしれませんが・・・)

土御門通親周辺の系図

源通親は婚姻関係に頭を使って政治の世界をのし上がっていますので、誰を妻にしたか、裏の目的は何かを把握していくと分かりやすいです。

初期の結婚

村上源氏は源氏系の公卿で筆頭を務めていましたが、朝廷内の序列では藤原氏(摂関家)に到底及びません。そこで、藤原忠雅の娘を妻としますが、裏の目的はその姉妹だった「忠子」が、関白だった松殿基房の妻だったこと。

これで、藤原摂関家との繋がりを持ったことになります。

源雅通[内大臣]    (花山院)藤原忠雅       藤原忠通
 |           ┣-----┓         ┣--------┓
源通親 =========忠雅娘   忠子===(松殿)藤原基房[関白] 九条兼実
                             |
                            藤原伊子===木曽義仲

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

平家の世に

平治の乱以降、台頭してきた平清盛を率いる平家一門。
のし上がるためには平家に与することが得策ということで、次に平教盛の娘を妻に迎えます。

平教盛は平清盛の異母弟。
平清盛の信頼を得て、高倉上皇の院庁別当として補佐、厳島御幸、福原遷都にも同行した。

                            
       ┣------┳------┳
源雅通   平教盛    平清盛    平頼盛
 |     |      |
源通親===教盛娘    平徳子====高倉天皇
                  |
                 安徳天皇

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

治承・寿永の乱

平家が滅亡すると、次は後白河天皇側に近づきます。
平家一門の能円の妻だった藤原範子は、平家の西国落ちには従わず、そこに源通親が接近し妻に迎えます。

藤原範子とその妹「兼子」が後鳥羽天皇の乳母だったことが理由。
これで、後鳥羽天皇との強い繋がりを持つことに成功します。

               
源雅通     藤原範季   
 |       |         ┣----┬-----┬
源通親=====藤原範子===≠===能円   平時忠  平時子===平清盛
         ¦(乳母) |
       後鳥羽天皇  藤原在子

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

藤原兼子(範子の妹)

1155-1229 後鳥羽天皇の乳母「藤原範子」を姉にもつ兼子。
土御門通親が亡くなったあとは、後鳥羽上皇に側近として重用された。

実朝後の将軍の後継者として親王将軍を求める北条政子と対面。藤原兼子が養育していた頼仁親王(よりひとしんのう)を押したが、承久の乱が勃発して親王将軍の話は頓挫した。

天皇の外祖父へ

天皇の外祖父に誰もがなりたい時代。
九条兼実は娘「任子」を、通親は養女「在子(前夫能円の子)」を、さらに、頼朝の「大姫」まで後鳥羽天皇の入内争いに参入。

最終的に、一番初めに男子を産んだのは源通親の養女「在子」。後の土御門天皇です。
源通親は権勢を極め「源博陸」と呼ばれるようになりました。※博陸は関白の唐名。(兵衛府の武衛と同じ)

       後白河法皇===============丹後局(高階栄子)
         |             |
九条兼実    高倉天皇   源通親   覲子内親王(宣陽門院)
 |       |  (養女)| 
藤原任子===後鳥羽天皇===藤原在子
     |       |
     女児      男児(土御門天皇)  

※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください

土御門通親ゆかりの地

土御門内裏跡

10世紀ころに村上天皇の皇子「具平親王」の邸宅が造営されて以来の村上源氏ゆかりの場所。
1156年の保元の乱で廃絶したと書かれていますが、源通親が土御門と名乗るのはここが由来かもしれません。

久我大臣の墓

京都伏見区にある久我地域。

平安時代後期以降、久我家(村上源氏の流れを汲む華族)の荘園で別荘「久我殿」を構えたところ。久我通親(源通親)のものとされる墓標(久我大臣の墓)が残っています。

誕生寺

曹洞宗の宗祖「道元」の父は久我通親(源通親)
その、父が営んだ別邸跡に建てられたお寺が「誕生寺(京都市伏見区)」

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