梶原景時の変
正治元年10月25日~翌正治2年1月20日にかけて、鎌倉幕府内部で起こった政争。
頼朝死後に御家人の権力闘争が始まる、その第一弾。御家人66人の連判状によって鎌倉から追放、一族が滅ぼされた事件。ここに登場する御家人66人が分かると、鎌倉幕府の理解が進みます。
梶原景時の乱 詳細時系列
梶原景時の変はおよそ三か月に渡って行われた、鎌倉御家人 vs 梶原景時一族の戦い。
いきなり合戦ではなくて、訴状という点でやりあった為にこれほどの長期戦になりました。
日付 | 出来事 |
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梶原景時弾劾連判状作成 | |
10月25日 | 結城朝光が夢想のお告げにより、阿弥陀仏の名号を唱え旧事を偲んだ |
10月27日 | 「先日の述懐の件で、景時の讒訴によって誅殺されようとしている」 と、阿波局が結城朝光に告げた |
結城朝光が親友だった三浦義村に相談し、この件、宿老らと談合すべきと結論 | |
和田義盛と安達盛長らに使者を送り、梶原景時弾劾の連署訴状を作ることに決定 | |
文書作成が上手な中原仲業が訴状作成を快諾 | |
10月28日 | 多くの御家人(総勢66人)らが鶴岡八幡宮の廊に群衆。 神仏に近い、訴状に署判を加えた |
訴状を和田義盛・三浦義村が大江広元に渡す | |
弾劾状に対する審判 | |
11月10日 | 和田義盛が、源頼家に訴状の提出を渋っていた大江広元に出会い、詰問。 |
11月12日 | 大江広元が源頼家に連署状を持参。頼家は梶原景時に是非を述べよと言った。 |
11月13日 | 梶原景時は弁明できずに子息、親類を連れて相模一宮に下向 |
11月18日 | 酒宴の場で、頼家は鎌倉に残っていた景茂(景時の子)に訴状の件で話をする。 |
12月9日 | 梶原景時が一宮の所領から鎌倉へ帰参 |
12月18日 | 何度も審議を重ねたうえ、今日鎌倉から追放、家屋も破却された。 |
1月20日 | 夜10時頃、景時父子は駿河国清見関に到着 景時が謀反を企て状況するとの風聞により、追討の軍兵を遣わし合戦に |
梶原景時の乱、後処理 | |
1月21日 | 朝10時頃、山中から景時と子2人の首を探し出した。 |
1月23日 | 追討の軍兵が鎌倉に帰着。合戦の記録を献じる。 |
1月24日 | 景時の親友だったため、加藤景廉が所領没収される |
1月28日 | 武田有義が景時との約束で上洛しようとしている事が判明。有義はすでに逃亡 |
2月5日 | 景時に奪われていた侍所別当に和田義盛がに還補。 |
梶原景時の変 詳細
梶原景時の変ゆかりの地
梶原屋敷(別荘)跡(梶原谷)
明王院の奥「梶原谷」と言われる場所に、梶原屋敷跡があったと伝わっています。
分かりにくいですけど、梶原井戸と呼ばれる梶原邸で使ったと伝えられる井戸跡とその近くに祠があります。
鎌倉を追放された梶原景時の屋敷が破却されたと、大佛次郎の「鎌倉歴史散歩」に書かれているそうです。


また、昭和2年に発行した地図「鎌倉」(鎌倉同人会)に、梶原谷の奥に「梶原邸蹟」と「梶原井戸」の存在を記しているようです。
相模一宮屋敷
親族だった大庭景親などが亡くなり、この辺一帯の土地を引き継いた場所に建てたと思われる、現寒川町にある梶原景時屋敷跡。景時はこちらに下向して、京を目指したと考えられれます。


梶原景時館跡のすぐ近くに梶原氏一族に関係する史跡もあります。


清見関~梶原山(駿河国)
相模一宮から京へむかった梶原景時一族は、北条時政が守護と務める駿河国で北条氏の命を受けた現地武士と戦い、敗れてしまいます。