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工藤祐経(くどう すけつね)
1147?-1193
先代からの相続による遺恨から、伯父の嫡男を射殺し、残された幼き兄弟(曽我兄弟)から恨まれて、有名な「曽我兄弟の仇討ち」の仇討ちされる人物。
幼き頃から京の平氏に仕え、武功は挙げられなかったが、鼓・今様に優れ、頼朝の寵臣となる。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、坪倉由幸(我が家)さんが演じられます
工藤祐経の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
久安3(1147)年 | 0 | 誕生(諸説あり) |
後見人で義理の伯父「伊東祐親」と上洛し平重盛に仕える | ||
伊東祐親に伊東荘と妻(万劫御前)を奪われる | ||
安元2(1176)年 | 30 | 郎党に伊東祐親父子を襲撃させ、嫡男「河津祐泰」を射殺 |
京から鎌倉に下り、弟宇佐美祐茂を頼り頼朝に重臣か? | ||
元暦元(1184)年 | 38 | 鎌倉にて平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打ち今様を歌う |
一条忠頼の誅殺に加わるが、顔色を変えて失敗 | ||
源範頼率いる平氏討伐軍に加わる | ||
文治2(1186)年 | 40 | 静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打つ |
建久元(1190)年 | 44 | 頼朝上洛時、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれる |
建久4(1193)年 | 47 | 曽我兄弟の仇討ち 富士の裾野での巻狩りで、曽我兄弟に討たれる |
工藤祐経は、東国武士達には持っていない、朝廷や平家の公達を鼓や今様でもてなす能力があり、それを源頼朝が高く評価したと思われる。
平重衡を慰める宴席にて(吾妻鏡初登場)
京からの客人(今回は捕虜ですが)をもてなすため、西国と東国と文化的な開きを埋めるために、東国に居て京文化に慣れ親しんだ人物は数が少なくそれだけで貴重な人材ですね。
ともに、伊東祐親を憎んでいたという頼朝との共通点も大きかったとは思いますが。
元暦元(1184)年4月20日
一ノ谷の戦いに敗れ鎌倉に連れてこられた平重衡。
頼朝は重衡を慰めようと工藤祐経、官女(千手前)藤原邦通を遣わし、祐経は鼓を打って今様を歌った。
祐経は、以前、平重盛(重衡の兄)に仕えていた時、常に重衡と顔を合わせていたので、古いなじみを忘れず憐れんだ。
一条忠頼の誅殺失敗
荒事にまったく慣れていない東国武士らしからぬへっぴり腰ですが、京文化に明るい一面を持ちあわせたおかげで、そのマイナスを補っています。
ただ、東国武士からは、冷めた目で見られていたことでしょう。あんなへっぴり腰な人間がなぜ頼朝の寵臣になるのだと。
元暦元(1184)年6月16日
一条次郎忠頼が威勢を振るうあまり、頼朝が世の中が乱れる可能性ありと誅殺を決められ、忠頼の討手を祐経と決められた。
しかし、特別な武将(甲斐源氏)とケリをつける直前に、顔色が変わった。
その場に居た、小山田有重が機転を利かせ、代わりに天野遠景が忠頼を誅殺した。
工藤祐経流血事件
頼朝の寵臣と言うことで、少し驕りがあった工藤祐経が見られます。
勇猛果敢で、藤戸の戦いでは命を顧みず戦った佐々木盛綱なんかは、工藤祐経の事を良くは思っていないでしょう。謝罪を拒否しています。
建久元(1190)年7月20日
工藤祐経の驕りが出てしまったのか、佐々木三郎盛綱の子「佐々木太郎信実」を怒らしてしまった事件。
最終的に、頼朝は盛綱に祐経に謝るように言われるが、それを拒否。
これには、武勇も無いのに頼朝の寵臣だった工藤祐経なんかに頭を下げたくないという理由もあったのでは?
工藤祐経周辺の系図
曽我兄弟の仇討ちに至るまでには、工藤一族による相続が絡んだいびつな人間関係がありました。
工藤祐隆================後妻
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伊東祐家 連れ子
| |
伊東祐親 工藤祐継
├------┬------┬ ├-------┬
河津祐泰 伊東祐清 八重姫 工藤祐経 宇佐美祐茂
├------┐ |
曽我祐成 曽我時致 工藤祐時
[日向伊東氏]
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
工藤祐隆は、藤原南家の流れを汲む工藤氏6代目。伊東氏の祖。
本領の伊東荘(嫡男)と河津荘(次男)の相続
伊東祐親は本来、祖父の工藤祐隆から嫡男として本領の伊東荘を貰えると思っていたが、後妻の連れ子が生んだ工藤祐継が嫡男として伊東荘を相続。祐親は次男扱いの河津荘を相続し、この時点で火種が生まれます。
祐親としては血のつながっていない祐継が嫡流になるのは受け入れることが到底できず、祐継死後、祐経を京都に仕出しさせて、伊東荘と妻(祐親の娘)まで奪ってしまいます。
そうなると、祐経としては、嫡流を奪った伊東祐親父子への恨みが募り、襲撃し祐泰を討ち、妻と幼き兄弟が残されてしまうのです。ここから曽我兄弟の仇討ちが始まります。
工藤祐経ゆかりの地
実相寺(鎌倉市材木座)
実相寺は日蓮宗の寺院。曽我兄弟の父の仇として討たれた「工藤祐経」の屋敷跡と伝わる。
開山の日昭は、母親が祐経の娘。日蓮の直弟子筆頭だった。
工藤祐経の墓
▶ 静岡県富士宮市上井出351|🅿あり(白糸の滝駐車場)|
富士の巻狩りの最中に、工藤祐経が宿にしm曽我兄弟に討たれたていたとされる場所の近くに墓があります。近く(約100mほど)には、曽我兄弟が工藤祐経の様子をうかがっていた隠れ石も。
白糸の滝駐車場からは300mほどの距離なので歩いてきます。行先表示もあって迷うことはないでしょう。