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仁田忠常(にった ただつね)
1167-1203。伊豆国仁田郷(現、静岡県田方郡函南町)の住人。
伊豆箱根鉄道駿豆線には「伊豆仁田」駅があります。
吾妻鏡には、新田四郎忠常、新田四郎の名前でよく登場します。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、高岸宏行(ティモンディ)さんが演じられます。
仁田忠常の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
仁安2(1167)年 | 0 | 誕生(父母不詳) |
治承4(1180)年 | 14 | 頼朝の挙兵に当初から加わる |
文治3(1187)年 | 21 | 危篤状態に陥る |
文治5(1189)年 | 23 | 奥州合戦に参加 |
建久4(1193)年 | 27 | 曾我兄弟の仇討ちで、兄「曽我十郎祐成」を討ち取る |
建仁3(1203)年 | 37 | 比企能員の変 北条時政の命に従い、比企能員を誅殺。 |
北条時政亭を出たところで、加藤景廉に暗殺される |
仁田常忠は頼朝からも、頼家からも信頼された御家人でした。
ただ、頼家から信頼されてしまった関係で、比企能員の変に絡んで命を落としてしまいます・・。
吾妻鏡より・・・
頼家の無茶ぶり?
吾妻鏡には、単なるその日の日記のような内容も書かれています。
主君が頼家の時に、新田忠常が命令されたのは、怪しい光で郎従4人が亡くなった洞穴探検でした。
いったい何が言いたいのでしょうか?
建仁3(1203)年 6月 3日
源頼家が駿河国富士の狩倉に出かけた。その山麓には人穴(空洞)と呼ばれる大きな谷があり、その場所をよくよく見聞させるために新田四郎忠常ら主従六人を入れられた。忠常らは日が暮れても帰ってこなかった。
建仁3(1203)年 6月 4日
午前10時頃、忠常が人穴から出て帰ってきた。
「穴は狭くて引き返せず、水が足元を流れ、蝙蝠が前を遮り、到着した場所は大きな河でした。河の向こうに怪しいものが見えたと思うと、郎従余人がたちまち死亡しました」と。
比企能員の変と仁田忠常
比企能員の変では、北条氏と将軍家(頼家)の間に挟まれた状態になって、結果殺されてしまいました。
当初から北条氏と共に戦っていたのに、北条家に裏切られるとは・・・。
建仁3(1203)年 9月 2日
北条時政は、天野蓮景・新田忠常を連れて荏柄社の前で馬を留め、「比企能員が謀反を企てたので、今日追討する。それぞれ討手を勤めよ」と命じた。
北条時政の館に入ってきた能員を、蓮景・常忠が立ち向かい、能員の左右の手を掴み、築山の麓の竹やぶの中に引き倒して躊躇なく誅殺した。能員の従者は逃げ帰り、一族・郎党が小御所(一幡君の館)に立てこもった。
謀叛なので北条政子の命令で小御所へ襲来した。
その軍勢には仁田忠常もいる。他には、北条義時、北条泰時、平賀朝政、畠山重忠、榛谷重朝、和田義盛等。
したたかに動いた和田義盛に対して、源頼家と北条時政との関係で自分の態度を明確に出来ず悩みぬいた仁田忠常は、時代の流れというものを読めなかったようです。
同年 9月 5日
源頼家の病気が快復したが、一幡、能員が滅亡したとの報に、北条時政を誅殺せよと、和田義盛と新田忠常に命じた。和田義盛はその御書を時政に献上した。
ちょっと、北条一族に嵌められた感じの有る仁田忠常です。
北条一族にとっては便利な御家人ですし、わざわざ殺す必要なかったとは思うのですが・・・。
同年 9月 6日
北条時政は新田忠常を名越の館に呼んだ。能員追討の恩賞の為だった。
しかし、館からなかなか出てこない忠常。これは、頼家の時政命令の件がバレて処断されてしまったと思い、弟の五郎、六郎は北条義時がいる大御所に矢を放った。義時は応戦し、五郎は波多野忠綱に首をとられ、六郎は自害した。
弟たちの早とちりを理由に謀反の疑いをかけられ、加藤景廉に討たれた。
仁田忠常周辺の系図
仁田忠常の墓は、子孫を称する一族によって守られているとのことなので、脈々と血は続いていると思いますが、詳しい系図はほとんど分かっていないようです。
父不明┐
├--------┬------┐
仁田四郎忠常 五郎忠正 六朗忠時
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子不明
弟の五郎、六郎は、比企能員の変で忠常と共に亡くなっています。
仁田忠常の妻の死
文治3(1187)年 7月18日
仁田四郎忠常の妻が三嶋大社に参詣しようしたが、増水のため江尻の渡戸(現静岡県清水市)に小舟を浮かべたところ転覆して、忠常の妻一人だけが亡くなってしまった。(同船した人々は皆助かった)
忠常の妻は信心深い人で、小さいときから今まで毎月欠かさず三嶋大社へ詣でていた。
今年の正月頃に忠常が危篤になったとき「私の命を縮めてもいいから夫を助けて下さい」と三島社に願文を捧げたため、三島明神がその願文を受け入れたのだろうと。時の語り草になった。
仁田氏ゆかりの地
現 田方郡函南町仁田
仁田常忠の”仁田”は地名です。
北条氏が館を構えていた、北条地区(現伊豆の国市寺町)より、約4kmほど北に位置します。
伊豆箱根鉄道でも、伊豆仁田-原木-韮山(北条地区最寄り駅)と、三駅ほど三島方面に向かった場所です。
仁田常忠公の墓(慶音寺)
伊豆箱根鉄道駿豆線の「伊豆仁田駅」から、東方面に約500m(徒歩約10分)歩くと、来光川に架かる「にったばし」があり、その橋の手前を慶音寺に下る道にあります。
慶音寺(日蓮宗|鎌倉時代から続く仁田家の菩提寺)の正門から入ると見れなくて、その手前にある普通の住宅の庭のような場所にヒッソリと建っています。
左が「五郎忠正」、中央が「四郎忠常」、右が「六郎忠時」、の墓とのこと。
仁田館遺跡
仁田忠常一族が代々居住した仁田館は、忠常公の墓周辺一帯のことを指しているとみられます。
忠常公の墓の横には、土塁を築くために掘られた空堀などが見られます。
立派な基礎をもった建物群、井戸、堀などが発見されたようです。(安土桃山時代~江戸時代)
仁田橋の近くに「仁田館遺跡」についての説明板がありますが、文字もかなり消えていて再設置して頂きたいものですね。