北条政村
1205-1273 鎌倉幕府第7代執権、
北条義時の5男も、長男は側室、2~4男は離別のため、継室(正室)の長男でした。
元服の時の烏帽子親は三浦義村、北条時政と三浦義村の名前から「政村」と名乗ります。
伊賀の方(母親)が起こしたとされる、伊賀氏の変で執権に持ち上げられようとするも失敗し、伊賀の方は流罪となるも、政村にまで罪は及ばなかった。それ以降、兄泰時時代以降、得宗家を支え続けた。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、新原泰佑さんが演じられます。
北条政村の簡易年表
年代 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
元久2(1205)年 | 0 | 誕生(父:北条義時、母:伊賀の方) ※同日に畠山重忠の乱が発生 |
貞応3(1224)年 | 20 | 父:北条義時死去、 伊賀氏の変が起るも、泰時の計らいで政村は刑を受けず |
延応元(1239)年 | 35 | 評定衆に就任(最初の役職就任) |
宝治元(1247)年 | 43 | 宝治合戦が起き、三浦一族が滅びる |
建長8(1256)年 | 52 | 兄重時(出家引退)に代わり、連署となる |
文永元(1264)年 | 60 | 7代執権に就任 ※得宗家「北条時宗」が14歳だったため、とりあえず「連署」に |
文永5(1268)年 | 64 | 蒙古国書が到来 時宗が執権に、政村が連署の体制となる |
文永9(1272)年 | 68 | 二月騒動 |
文永10(1273)年 | 69 | 出家し「常盤院覚崇」と号し、同月に死去 |
吾妻鏡より
北条政村の元服
9歳という若さで、三浦義村を烏帽子親として元服したことが、さらっと書かれています。
建保元(1213)年 12月28日
夜、北条義時が可愛がっている若君(後の北条政村、9歳)が御所で元服した。三浦左衛門尉義村が加冠を勤めた。四郎政村と号した。
北条政村周辺の系図
北条政村の母「伊賀の方」は、北条義時の継室で13人の宿老の一人「二階堂行政」の血を引いている女性です。
伊賀の方が産んだ政村と実泰は5男、6男ですが、仮名は四郎、五郎。
これは、側室が産んだ4男(異母兄)「有時」より序列を上にするため。有時の仮名は六郎。
二階堂行政
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北条時政 伊賀朝光=====二階堂行政の娘
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北条義時=====伊賀の方
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北条泰時 北条重時 北条政村 北条実泰 北条時尚
[得宗] [極楽寺流] [政村流] [金沢流] [陸奥七郎]
※系図が崩れる場合は、画面を横にしてご覧ください
北条時頼時代から行われた、秘密会議「深秘の沙汰」にも参加しているほど、鎌倉幕府の中枢メンバーの一人でした。政村から繋がる系図を政村流とも呼びます。
北条政村ゆかりの地
北条氏常盤亭跡(通称:タチンダイ)
北条氏常盤亭跡は、北条政村を始めとする、有力北条家一門が別邸を構えていた場所とされています。国指定史跡。
近くには大仏切通しもあり、鎌倉へ向かう重要な街道を臨む場所にあり、外敵から備える意味もあったと思われます。


北条氏常盤亭跡の横には、極楽寺流から繋がる塩田流北条氏「北条義政(北条重時の子)」の別邸もあったとされ、下記のYouTubeで紹介しています。