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安田 義定(やすだ よしさだ)
1134-1194
甲斐源氏の惣領、武田信義の弟。一ノ谷の戦いでは源義経軍(搦手軍)で副大将として活躍し遠江守に。
後に勢力を持ちすぎたためか、梶原景時の罠にかかり、子の越後守義資が名越邸にて殺され、甲州におちのびた義定は放光寺で自刃。
安田義定の簡易年表
時期 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
長承3(1134)年 | 0 | 誕生 |
治承4(1180)年 | 47 | 波志田山合戦 平家方の俣野景久らが甲斐へ、義定らが退ける |
富士川の戦い 武田信義とともに、平家側の背後をついて襲撃した | ||
戦功により駿河国守護に任じられる | ||
寿永2(1183)年 | 50 | 平家追討使として東海道から上洛、京中の守護をする |
寿永3(1184)年 | 51 | 宇治川の戦い 源義経軍に加わり、木曽義仲を滅亡させる |
一ノ谷の戦い 源義経の搦め手軍に加わる | ||
文治5(1189)年 | 56 | 奥州合戦に従軍 |
建久2(1191)年 | 58 | 従五位上に昇叙 |
建久4(1193)年 | 60 | 子の安田義資が院の女房に艶書を送った罪で斬られ、義定も所領を没収 |
建久5(1194)年 | 61 | 義定は謀反の疑いで梟首 |
安田義定の失脚
子の過ち?、それとも策略にハマったことにより、安田義定は縁坐という形で所領を失います。
梶原景時の策略の匂いがします。
建久4(1193)年11月28日
越後守義資(安田義定の子)が女の事により梟首された。加藤景廉が命じられた。
父遠江守義定は、この縁坐によりお怒りを受けた。
永福寺薬師堂供養の間、義資が艶書を女房の聴聞所に投げ、本人は黙っていたが、梶原景季の妾が(どこかで見ていたのか?)景季に話、それが父景時に伝わり、それが頼朝に伝わった。
建久4(1193)年12月5日
安田義定の所領、遠江国浅羽庄(現静岡県袋井市)地頭職を没収、代わりに加藤景廉が補任された。
安田義定周辺の系図
安田義定は、新羅三郎義光の孫にあたり、義光の四男。
※尊卑分脈、諸系図では清光の四男、吾妻鏡には安田冠者義清四男
源義清
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源清光
├---┬---┬-----┬
光長 信義 遠光 義定
(逸見)(武田)(加賀美) (安田)
├----┬
義資 義季
安田義定(甲斐源氏)ゆかりの地
放光寺(安田義定菩提寺)
▶ 甲州市塩山藤木2438 |Pあり | 拝観料 300円 | 公式HP |
元暦元年(1184)源平合戦で功績をたてた安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創立したお寺。
武田信玄の時代には、武田家の祈願所となる。
安田義定公の墓
建久5年(1194)8月19日梶原氏らの謀反の嫌疑を受け当山において自刃したと伝えています。墓は本堂と愛染堂の裏手にあり、拝観料を払わないと見れません。
安田義定に関する説明板
放光寺の有料拝観ゾーン(開基堂や愛染堂)には、安田義定に関する説明が沢山ありとっても勉強になります。