今回は蓮華寺という、またまた鎌倉で初めて聞くお寺の名前が書かれた石碑を読んでみました。
現在お寺が残ってない場合は、廃寺、または、移転がありますが、蓮華寺は移転の方ですね。
しかも、その移転先が、鎌倉を代表する大寺院「光明寺」ということで、凄い石碑でした。
目次
蓮華寺跡(れんげじあと)
「蓮華寺阯」石碑の場所
石碑に書かれている文字は?
蓮華寺ハ仁治元年(紀元一九〇〇)北條経時ノ創立ニカカリ僧良忠ヲ開山トセシガ
寛元元年(紀元一九〇三)之ヲ材木座ニ遷シ寺号ヲ光明寺ト改メシ由傳ヘラル
又一説ニ蓮華寺ハ経時ノ菩提の為建長三年(紀元一九一一)北條時頼之ヲ建立シ
後弘安二年(紀元一九三九)ノ頃武州へ遷セリトモイフ
此谷ヲ佐介ヶ谷ト唱フ
昭和九年二月 鎌倉町青年團建
蓮華寺は1240年(仁治元年)北条経時の創立で僧の良忠を開山としたが、1243年(寛元元年)に材木座に移して寺名を光明寺と改めたと伝えられる。
また、一説には、蓮華寺は北条経時の菩提を弔う為に、1251年(建長3年)北条時頼が建立し、1279年(弘安2年)の頃に武蔵国へ移されたとも言われる。
この谷を佐助ヶ谷という。
※間違ってたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
今回はそれほど難しい漢字は出てきませんでしたね。(沢山読んでいくと旧字体も分かるようになります)
事前知識(歴史編)
北条経時
1224-1246年。鎌倉幕府4代執権。3代執権「北条泰時」の嫡男だった「北条時氏」の長男。
母は松下禅尼。5代執権「北条時頼」は同母弟。23歳で死去。
戒名は蓮華寺安楽。蓮華寺は経時の戒名が由来ですね。
光明寺裏山にある、経時の墓(宝篋印塔)にも、蓮華寺殿と彫られているのが分かります。
光明寺開山堂の案内板には、良忠上人は北條経時の帰依を受けてたと書かれてますね。
僧 良忠
1199-1287年。りょうちゅう。鎌倉時代の僧。浄土宗第3祖。
関東に広く布教して、鎌倉に光明寺(蓮華寺)を創建。記主禅師とも。
武州
武蔵国の別称。鎌倉は相模国。
佐助流北条氏
佐助流北条氏は、北条時政の子で北条義時の異母弟「北条時房」が祖の北条氏一族。
時房の長男「時盛」が佐助流、弟「朝直」が大仏流、と2家に分かれ、家督争いに勝ったのは大仏流。
1333年の極楽寺坂の戦いでも大仏貞直(大仏流)が総大将なのに佐助流は・・。
吾妻鏡では、1247年、北条時盛の佐介亭があると書いてあり、時盛の子孫もこの地に住んだので佐助流と言われるらしいです。
大本山光明寺
鎌倉を代表する浄土宗の大寺院。山号は天照山。この光明寺に関してはいろんな方面から取り上げました。
・小堀遠州の流れをくむ本堂左手の記主庭園
・戦後まもなく開校された「鎌倉アカデミア」
・後花園天皇の直筆と伝えられる山門の「天照山」の扁額
知れば知るほど興味深いですね。
蓮乗院
光明寺の山門右手にあります。
光明寺の前身が「蓮華寺」っていう名前なので関連があるように思ってしまいますが、光明寺が来るより前には既にあったようで、蓮華寺が光明寺になって材木座へ移ってきたので、蓮乗寺から蓮乗院へ改称したようです。
良忠(記主禅師)が光明寺が落慶するまで蓮乗院に居住したようで、今でも光明寺へ入る新住職は蓮乗院を経由するとか。
寺紋は千葉氏の「月星」ですね。
本尊の阿弥陀如来坐像が千葉常胤の守護仏と伝わっているそうです。