長樂寺跡|鎌倉文学館の広大な土地は、七堂伽藍を有する大寺院だった(石碑を読む)

長樂寺跡|鎌倉文学館の広大な土地は、七堂伽藍を有する大寺院だった(石碑を読む)

2020-06-11

今回は、笹目にある鎌倉文学館の入口付近に建っている「長楽寺跡」の石碑を読んでみました。
鎌倉文学館は、昔の大寺院の跡地に建てられたんですね。

広大な敷地ですから納得です。

鎌倉文学館(長楽寺跡)

長樂寺跡(長楽寺跡)|現 鎌倉文学館

長楽寺跡

「長楽寺跡」石碑の場所

石碑に書かれている文字は?

嘉禄元年三月 ニ位ノ禅尼政子頼朝追福ノ為笹目谷邊ニ於テ方八町ノ地ヲシ七堂伽藍ヲ営ミテ長楽寺ト〇ス 元弘三年五月北條執権滅亡ノ際兵ニ罹リテ焼失セリト 此ノ地即チ其ノ遺址ニシテ今ニ小字ヲ長楽寺ト呼ベリ

昭和六年三月建之 鎌倉町青年團

1225年(嘉禄元年)北条政子が夫、頼朝の冥福を祈るために、笹目ヶ谷あたりに約800㎡の土地を選び、七堂伽藍を有して長楽寺と呼んだ。(元弘三年)5月執権北条氏(鎌倉幕府)滅亡の際の戦火に遭って焼失した。この地はその遺跡により字名を長楽寺と呼ぶ。

昭和六年三月設置 鎌倉町青年団

※間違ってたらごめんなさい。

事前知識(漢字編)

:兵(へいか):戦争のために起きる火事
:ボク、うらなう: ①占い ②選び定める

事前知識(歴史編)

嘉禄元年

1225年。嘉禄(かろく)。1225年~1227年。後堀河天皇の時代。執権「北条泰時
前元号は「元仁(げんにん)」、次元号は「安貞(あんてい)」

元弘三年

1333年。鎌倉幕府滅亡の年。元弘(げんこう)。1331年~1334年。
前元号は「元徳(げんとく)」、次元号は「建武(けんむ)」

方八町

八町(八丁)は一丁の八倍。一町は約109.09メートル
方は正方形の一辺の長さ。つまり、約110㎡の広さと想定。

安養院と長楽寺の関係

鎌倉検定ガイドブックに下記の記載があります。

政子は源頼朝の菩提寺として笹目に長楽寺を建立、しかし、幕府滅亡のころに焼失。現在の地にあった浄土宗名越派善道寺も幕府滅亡の際、焼失したため、その跡に長楽寺を移し、ニ寺は併合された。

鎌倉検定公式テキストブック

長楽寺は安養院の前身だったんですね。
長楽寺と善道寺。二つの廃寺をこの石碑で知ることが出来ました。

安養院は坂東三十三か所観音霊場の三番札所です。田代観音。

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安養院はツツジ(躑躅)で有名なお寺です。

境内には、北条政子の供養塔(小さな石塔)があります。
※一時期は写真撮影が禁止されていましたが、2023年時点では撮影OKです。(三脚等はNG)

宝篋印塔

上記写真、左側の小さな宝篋印塔が北条政子の墓と言われているもの。
ちなみに、右側の大きな宝篋印塔は善道寺の開山尊観の墓だそうです。

※善道寺は、もともとこの地(安養院)にあったお寺でしたね。

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