今回は鎌倉市内にある「永福寺旧蹟」の石碑を読んでみました。
この永福寺跡地に当時としては大きな二階建てのお堂があったので、二階堂という名字の元になったと、テレビとかでもやってましたね。
現在は史跡公園として奇麗になりましたが、当時の建物が残ってたらと思うと、残念です。。。
目次
永福寺旧蹟(ようふくじ)

「永福寺旧蹟」石碑の場所
石碑に書かれている文字は?
永福寺世ニ二階堂ト偁ス 令ニ二階堂ナル地名アルハ是ガタメナリ
文治五年 頼朝奥州ヨリ凱旋スルヤ彼ノ地大長壽院ノ二階堂ニ擬シテ之ヲ建立ス
輪奐壮厳洵ニ無雙ノ大伽藍タリキト云フ
享徳年間 関東管領ノ没落セル頃ヨリ後全ク頽廃ス
大正九年三月建之 鎌倉町青年會
永福寺は当時二階堂と呼ばれていました。この辺に二階堂という地名があるのはこのためです。
1189年(文治五年)源頼朝が奥州より凱旋した後、奥州の地にあった大長寿院の二階堂に似せて永福寺を建立した
立派な建築物で広く、荘厳で、他に並ぶものがないほどの大伽藍であったという
1452-1455年の享徳年間に、関東管領が没落していく頃より、ほとんど荒廃していった。
大正9年3月建之 鎌倉町青年会
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
輪奐|りんかん|建築物が広大でりっぱなこと
洵|ジュン|まことに、本当に
無雙|現在の「無双」|並ぶものがないほどすぐれていること
頽廃|現在の「退廃」|衰えてすたれること
事前知識(歴史編)
文治五年
1189年。ぶんじ。1185-1190年。後鳥羽天皇の時代。
とは言え、後白河法皇が院政を敷いて、実権は握っています。
大長壽院
岩手県平泉町にある、天台宗中尊寺の塔頭。
享徳年間
1452-1455年までの期間。きょうとく。後花園天皇、足利義政(室町幕府将軍)の時代。
永福寺
建久2(1191)年に着工し、翌年にはほぼ完成した永福寺。
建立の目的は、奥州合戦などの内乱で、藤原泰衡や源義経など、亡くなった人の鎮魂と慰霊にありました。
永福寺は史跡公園として奇麗になって案内板も整備されて、憩いの場になりました。






でも、近くに飲食店とかは少なく、公共交通機関(バス)も鎌倉宮どまりなので、そこから徒歩で5分ほどと、ちょっと行きにくいので、主に地元民が使っているってかんじでしょうか。
鎌倉殿の13人で少し有名になって、観光客も増えては来ていますけどね。
せっかくここまで足を運んだなら、瑞泉寺や紅葉の時期なら獅子舞なんかもついでに行くと鎌倉を堪能できるかと思います。
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旧地名「三堂」
永福寺は、3つの大きな堂があったからでしょうか。
三堂という旧地名があり、その案内板が永福寺跡の入口に掲示しています。