建仁寺の歴史
臨済宗建仁寺派の大本山。京都五山第三位。
建仁2(1202)年の創建、開山は日本禅宗の祖「明庵栄西(みょうあんえいさい)」、開基は鎌倉幕府2代将軍の「源頼家」。頼家はこの時まだ若干20才でした。
ちなみに、鎌倉五山第三位は寿福寺で、こちらも開山は栄西。これは奇遇?

鎌倉幕府が京都にお寺の場所を寄進しているのが少し驚きです。元々、平家の領地で平家滅亡後、源氏の所領になっていたのでしょうか?
初めの頃は、天台・真言・禅の三宗兼学も、
・10世 円爾(えんに)
・11世 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう|鎌倉建長寺開山) を経て、臨済宗となりました。

明庵栄西
明庵栄西(1141-1215)は、岡山県出身の日本人僧)。
20代の頃に平家の庇護を得て南宋へ、40代の頃に再び入宋と、2度海外へ行っています。
挫折も味わったようで、1198年に京都での布教に限界を感じて鎌倉へ下向。
1200年に源頼朝一周忌の導師を務め、北条政子らの帰依を受け、鎌倉幕府の庇護を受けました。
1200年に鎌倉寿福寺を開山、2年後に京都建仁寺を開山します。

源頼家の子「栄実」は栄西のもとで出家し、主な弟子には「退耕行勇(浄妙寺開山、永福寺・大慈寺の別当))」がいます。
明庵栄西とお茶
栄西は、宋から喫茶の風習を持ち帰り、以降、日本茶道の基礎が築かれました。

このことから建仁寺では、開山降誕会(栄西の誕生日、4/20)に四ツ頭茶礼(よつがしら)という行事が行われます。
明恵上人へ
栄西は、高山寺の開山「明恵上人」に、宋から持ち帰った「茶の種」を送り、高山寺のある栂尾(とがのお)の地で栽培を初め、そこが「日本最古の茶園」と言われています。

栂尾茶は品質が良く「本茶」と呼ばれ、それ以外の茶は「非茶」。
闘茶という「本茶」を。充てる利き茶のような遊びも流行りました。後に賭け事が行われるようになり、財を亡くすような人も・・・
喫茶養生記
喫茶養生記は栄西が書いた上下2巻からなる書籍、作成年度は不明

上巻:茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用
下巻:飲水、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法
健保2(1214)年に、二日酔いの源実朝に献上したことが吾妻鏡に載っています。
吾妻鏡を読む限り、喫茶養生記は1214年の少し前に書かれたモノでしょうか?
建保2(1214)年 2月3日
二所詣でより鎌倉に戻られた源実朝の為に、安達景盛が御所で準備を整え酒宴が行われた。とっても豪華な席で、一晩中参加者たちは酒宴を楽しんだ
翌 2月4日
源実朝がすこし病気だったが大事は無く、これは昨日の酒宴の二日用意の可能性も。
この時、栄西が加持のため側にいて、この事を聞き良薬なのでと寿福寺から茶を取り寄せて実朝に勧め、また一巻の書物を添えて献上した。実朝はとても喜んだ。
栄西は「先月頃、坐禅の余暇にこの本を書きだしました」と。
建仁寺の国宝・文化財
風神雷神図屏風
琳派の「俵屋宗達(生没年不詳)」が書いた作品で国宝。
風神雷神図屏風は、一世紀後に尾形光琳が写し、さらに一世紀後に酒井抱一が写しています。
ともに、同傾向の表現手法を用いる造形芸術上の流派「琳派」
俵屋宗達は本阿弥光悦と親密な交際があったようです。
旧方丈障壁画(建仁寺本坊)
「山水図」「花鳥図」「雲龍図」は海北友松(1533-1615|かいほうゆうしょう)の作品で重要文化財。
海北友松は、建仁寺に本坊だけでなく山内の塔頭にも多くの障壁画を書いています。
元は近江浅井家の家臣で、文人画家。
恵美須神社(京都ゑびす神社)
建仁寺の側にある神社。
栄西が宋から帰路に暴風雨にあい、波間に恵美須神を得て船中に祀ると風雨が止んだことから、建仁寺の創建にあたって境内に恵美須神を祀ったのが始まりとか。
都七福神まいりの一つ。当然、恵美須神。
1月10日に十日ゑびす大祭(初ゑびす)は、えびす宮総本社の西宮えびすでも行われる行事。
10月20日に二十日ゑびす大祭は、この神社独自の祭り。江戸に商売に出かけてた商品が10月20日に京都に帰ってきて恵美須神に感謝したのが始まりとか。
というお祭りがある。

