今回は、源頼朝の祖先をずーっと遡ってみました。
どういう祖先がいて、その時の出来事や人物など、ザックリ調べて何か掴めたらいいなと。
何分、勉強途中なので、記載内容に間違いがあったらすみません。
目次
清和源氏 清和天皇から源頼朝まで
まず最初は清和源氏の名前にもなっている清和天皇からスタートですね!
850年生 清和天皇|第56代天皇
850-881年。
父:文徳天皇(827-858年|第55代天皇)の第4皇子。母は藤原明子(あきらけいこ|皇太后)。
宝算31っていう短命な人生でした。※宝算(ほうさん)は天皇・貴人を敬った言い方。享年と同義です。
9歳で即位したので、母方の祖父「藤原良房(北家)」が幼い天皇を補佐します。摂政ですね。
第4皇子なのに天皇になったのは、母が藤原家出身で藤原良房の圧力があったと言われてます。
その他兄弟、特に第1皇子(惟喬親王)~第3皇子の妻は更衣とか宮人で藤原氏の勢いには敵わなかったのでしょう。
ちなみに同母(藤原明子)の第3皇女(敦子内親王)、つまり清和天皇の同母姉?妹?、は賀茂斎院になってます。
賀茂斎院は上賀茂・下賀茂神社に奉仕した皇女(伊勢神宮は斎宮、両者を合わせて斎王)
斎院御所は今の京都の上京区「櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)」附近と推定されています。
【摂政】藤原良房(藤原北家)
804-872年。始めて摂政(天皇の外戚で後見役)の地位についた人臣。太政大臣。
父は嵯峨天皇(第52代天皇)の厚い信任を得ていた藤原冬嗣(藤原北家)。その流れを受けて同じく重用されました。
藤原氏については、下記の本が分かりやすいです。
・歴史REAL藤原氏 (洋泉社MOOK 歴史REAL)
・歴史道 Vol.31 (週刊朝日ムック) 藤原氏1300年の栄華の謎
【古典】伊勢物語
900年頃に完成したと考えられている「伊勢物語」、和歌とその和歌についての説明(場所や背景)が書かれている歌物語です。
主人公は在原業平(むかし、男ありけりの男)とされていますが、その在原業平は文徳天皇の第一皇子「惟喬親王(これたか)」に仕えていました。
源氏物語も参考にした「伊勢物語」はこの時代だったんですね
他にも、在原業平が恋をした「恬子内親王(よしこ|斎宮)」や「藤原高子」、慕った「源融」などなど。
こういう時代背景と系図を知りながら読むと面白いです。
・伊勢物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典
・眠れないほど面白い『伊勢物語』: 歌人・在原業平の雅びで大胆な恋と人生
866年 応天門の変
清和天皇の時期の大事件としては「応天門の変」があげられます。
大納言だった伴善男(とものよしお|元大伴氏)が、左大臣「源信(みなもとのまこと)」の失脚を図って、応天門の放火を自作自演した出来事。
太政大臣「藤原良房」のおかげで、源信は無実とされて、後日、自作自演だったことがバレて流罪となってしまいました。藤原氏からすると、やっかいな大伴氏が排除されたラッキーな出来事だったでしょう。
<太政官 序列>
太政大臣 藤原良房
左大臣 源信(嵯峨源氏)
右大臣 藤原良相(ふじわらよしみ|藤原北家|藤原冬嗣5男)
大納言 伴善男(伊豆へ流罪)
大伴氏は奈良時代に、大伴旅人(大納言)・家持(中納言)とかが出た、藤原氏にとってはライバル一族。
823年に即位した淳和天皇が“大伴”親王だったこともあり、諱を避けて「伴氏」と改めました。昔は高貴な方を同じ名前は恐れ多かったんでしょう。
余談ですが、鶴岡八幡宮の初代神主は「伴忠国」で、大伴氏(伴氏)の流れを汲むみたいですね。
873年生? 貞純親王|清和天皇第6皇子
873?~916年。さだずみしんのう。平安時代の皇族。四品。
父は清和天皇(56代)。母は棟貞王(むねさだおう|桓武天皇の孫)の娘。
いろいろ調べてみたんですけど、情報少ないですね(汗)
清和天皇の第1皇子は当然のように陽成天皇(869-949年|第57代天皇)になってます。
【義理父】源能有(文徳源氏)
貞純親王の妻は、右大臣:源能有(みなもとのよしあり)の娘。
源能有(845~897)は文徳天皇(55代)の皇子でしたが、源姓を与えられて臣籍降下した人物(文徳源氏)。つまり、850年生まれの清和天皇は弟に当たります。
源能有の母は伴氏、清和天皇の母は藤原氏。この辺の違いでしょうか。伴氏も有力貴族なんですけど・・。
臣籍降下して人臣となり、清和天皇(56代)から宇多天皇(59代)まで長い間治世を助けて、従四位上から正三位まで登っています。
30歳ほど年上だった、菅原道真(845~903|学問の神様)とは、親しくしていたようです。
???年生 源経基(経基王)|初代清和源氏
生年不詳~961。みなもとのつねもと。平安時代の皇族・武将。
父親の貞純親王が第6皇子、かつ、清和天皇の孫にあたるので六孫王とも言われます。
現在と少し違うのかもしれませんが、昔は天皇の孫(親王の子)は王と付きました。長屋王とか葛城王(橘諸兄)、六孫王(源経基)とかですね。
親王の子になると皇位継承できる可能性もグッと下がってくるので、臣籍降下が多くなります。
・現在の皇室典範での「王」についてはこちら(宮内庁)
939年 承平天慶の乱(含、平将門の乱)
読み方は、元号から「じょうへいてんぎょうのらん」
同時期に起きた、東国側の「平将門の乱」と西国側の「藤原純友の乱」をまとめた名称です。
※承平は931~938年、天慶は938~947年。
現時点で、大河ドラマで一番古い時代を取り扱ったテーマがこれになります。
・大河ドラマ「風と雲と虹と」(承平天慶の乱)
源経基は、平将門の乱のきっかけを作り、また、藤原純友の乱を鎮めたことから歴史の表舞台に躍り出てきます。
源経基は、938年に武蔵介(武蔵国の国司)として現地に赴任。今で言うと副知事みたいな感じでしょうか。
当地で過去の慣習を無視して農民や在地豪族に無理難題を押し付けたことがきっかけで、農民の味方だった武蔵国の郡司が「平将門」に助けを求めました。
<メモ>
国司(国府の役人)の官職の順位は、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)
この時、源経基は武力で郡司方を襲っています。
清和源氏が武士として躍進してくる兆しがココから見られますね。
この時は、平将門らに殺害される危機感を覚えて、源経基は一旦京へ引き上げます。
「平将門」は、このような感じで現地の人々を助け頼られ、自分たちでこの地を治めようと「国府」を襲い始めます。最終的には朝廷側にやられてしまいますが、これが平将門の乱。
50.桓武天皇
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葛原親王?
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高望王(平高望)
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平国香 平良将 平良文
(伊勢平氏) | (坂東八平氏)
平将門
平将門の系図を辿っていくと、平清盛や坂東八平氏の祖である平良文など、馴染みのある名前が出てきます。楽しくなってきますね!
モノの見方によっては、平将門は良い人(現地側)にも悪い人(朝廷側)にもなりますから、ぜひ両方の視点から押さえておきたい。
この時代の話は下記の本がおススメです。
・小学館版学習まんが 日本の歴史 4 平安王朝と貴族政治
・日本の歴史 平安京の人びと: 平安時代前期
六孫王神社(京都)
京都市南区にある神社。源経基(六孫王大神)が御祭神です。
もともとこの場所は、源経基が住んでいた「八条亭」の跡地で、嫡子の源満仲が遺言に従って創建したと言われています。
六孫王神社のすぐ側をJRの線路が通っていて、JR京都駅が八条口があるで分かり易いですね。この辺は平家全盛の時には、平清盛の西八条邸宅になって、平家滅亡後に源頼朝(源氏)へまた戻ってきます。
912年生? 源満仲|基経王(源経基)の嫡男
912?~997。平安時代(中期)の武家。
人生の後半では、藤原摂関家(藤原兼家等)に仕える。
若い頃は、武士の一人として京の警護として仕事をしていましたが、それほど位は高くありません。このままだと、凡庸な人生で終わってしまいそう。そんなときに安和の変(969年)を利用して正五位下まで位を上げることに成功します。
その後は、摂津・越後・越前・伊予・陸奥の国司(受領)を歴任し富を築き、鎮守府将軍の役職まで得ることになりました。
しかしこれ以上、京では偉くなれないので摂津の国(川辺郡多々(兵庫県川西市多田))に定住、地名から多田源氏と呼ばれるようになります。
このように、「天皇名+源氏」と「地名+源氏」があって、歴代天皇が分からないとチンプンカンプンになりますね。
源満仲には沢山の子供がいますが、主な子供は下記の通りです。
嫡男:源頼光(多田を継承:摂津源氏)→ 明智光秀を輩出。
次男:源頼親(大和国宇野を本拠地:大和源氏)
三男:源頼信(河内国壷井:現羽曳野市を本拠地:河内源氏)
この中でも、源頼朝に繋がるのは三男の頼信(よりのぶ)です。
969年 安和の変(あんなのへん)
和暦、安和2年に起きた政変から、安和の変と呼ばれます。
簡単に言うと、藤原氏が他の氏族(主に源氏)を陥れて追い落とした政治的な事件です。
62.村上天皇が亡くなって、皇太子だった63.冷泉天皇が即位し、さて、次の皇太子(次期天皇)を誰にしようか?から政争が始まります。
63.冷泉天皇は身体が弱かったらしく、しかも子供がいない。だから、早めに皇太子を決めておかないと、亡くなってからでは大揉め間違いなし。63.冷泉天皇には、為平親王と守平親王っていう同母(藤原安子)弟がいます。そして為平親王の方が年上なので、普通は為平親王が皇太子なるのですが・・・。
為平親王の妻が、源高明の娘だったのが、藤原氏にとっては危険因子と映ってしまいます。そりゃそうです。為平親王に子供ができて、その人が天皇になったら、源高明が外祖父で摂政になります。
藤原氏が、摂政関白の地位を源氏に渡すことになるのですからね。
そこで、藤原氏があの手この手を使って謀叛をでっち上げ、それに源高明(左大臣)も関わっていたことにされて大宰府へされてしまいました。そして源氏の手がかかっていない「守平親王」が皇太子になって、64.円融天皇として即位します。
この謀反を密告した一人が「源満仲」です。
源満仲はどちらかというと源高明派だったようですが、藤原氏の勢いに乗っかろうと賭けたんでしょうか?
【主君】藤原兼家(摂政)
929~990年。平安時代中期の公卿。藤原北家。藤原道長の父。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原兼家役を段田安則さんが演じられています。
藤原兼家が右大臣だった頃、自分の娘「詮子(せんし)」と「64.円融天皇」との間に生まれた子「懐仁親王(やすひと)」を天皇に即位させるため、現天皇「65.花山天皇」をそそのかして出家に追いやり退位させた事件。
これを、花山天皇退位事件(986年)と言います。もう、藤原一族やりたい放題です(笑
この時、兼家の次男「道兼」が花山天皇を皇居から連れ出しましたが、他者からのいちゃもん等による出家の邪魔が入らないように警護したのが、主人の兼家から指示された源満仲です。
これで、藤原兼家は摂政となり、藤原摂関家と源氏(多田源氏)との主従関係が以降、続くことになります。
65.花山天皇は、西国三十三か所観音霊場を中興した人物。
源頼朝・実朝はこれを参考にして坂東三十三か所観音霊場を作り上げました!
968年生 源頼信|満仲3男、河内源氏初代棟梁
968~1048年。みなもとのよりのぶ。
河内国壷井(現大阪府羽曳野市)を本拠地にして土着(定住)して河内源氏と呼ばれました。
父の源満仲が藤原兼家(摂政)に仕えていた流れもあり、頼信は兼家の子「道兼」、道兼が亡くなってからは「道長」に武士(左兵衛少尉)として仕えます。
藤原道兼が亡くなった年が995年、その時、頼信は27歳でした。(道兼が7歳年上)
経基王(源経基)
┣
源満仲(多田源氏) 平維時(桓武平氏 国香流)
┣-----┳-----┳ |
源頼光 源頼親 源頼信 平直方
┣ |
源頼義=====平直方の娘
頼信が30歳の頃から、東国の介(副知事的な)や守(知事的な)に任じられるようになり、ここから河内源氏と東国の関係が始まっていきます。
※上野介、常陸介、甲斐守、相模守など。
源頼信の墓(大阪府南河内郡)
最終的に、従四位上・河内守となった源頼信は、今の大阪府南河内郡に邸宅を構えて余生を過ごしました。
邸宅跡は「通法寺付近(羽曳野市)」と考えられているようです。
お墓はその南河内郡太子町の小高い丘の上を中心に、頼信・頼義・義家と源氏3代がかたまって建っています。
ちなみに通法寺とお墓は、羽曳野市と南河内郡太子町と住所が異なりますがお隣です。距離も約150mほどしか離れていません。近くには壷井八幡宮もあります。
1031年 平忠常の乱
源頼信が常陸の介として現地に居た頃、東国にいた平忠常(祖父が平将門)と一度戦ったことがあり、忠常側が頼信の強さに降伏して家来になりますが、この主従関係が、その後の1031年平忠常の乱に響いてきます。
平忠常の乱は、彼が房総で起こした朝廷への反乱。さすが、平将門の血を引いてます。
朝廷側は平直方に追討使を命じるも失敗。
高望王(平高望)
┣--------┳-----┳-----┳
平国香 平良兼 平良将 平良文
| | |
平貞盛 平将門 平忠頼
┣----┳ ┣------┳
平維衡 平維将 平忠常 平将恒
* | (房総平氏祖)(秩父氏祖)
* 平維時
* |
平清盛へ 平直方
(北条氏祖)
それで、平忠常と主従関係を結んでいた「源頼信」を追討使に任ずると、それを聞いた平忠常は戦う前に降参しました。主従関係っていうのはすごい力ですね。
ここで、大河ドラマ「光る君へ」の登場人物を使って、朝廷側の人物関係を見ていくと代理戦争みたいな感じで面白くなります。
平忠常の乱は1031年なので、藤原道長は亡く(1028年死去)関白は嫡男の頼道になっています。
平直方は頼道の家人になっていて、桓武平氏で嫡流の血筋だった意地もあったのでしょう、関白の頼道に頼み込んで追討使を押し通した感じですが、大方は実資の推していた源頼信の方が良いと思っていたようです。誰にもなびかない実資らしい一面がココにもでてました。
<大河ドラマ「光る君へ」>
【関白】藤原頼道(渡邊圭祐|道長嫡男)→平直方(検非違使・相模守)
【右大臣】藤原実資(ロバート 秋山竜次)→源頼信
結局、頼道が推した平直方は鎮圧に失敗し、源頼信に出番が回ってきたという流れです。
988年生 源頼義|源頼信の嫡男、河内源氏2代目棟梁
988~1075年。なかなか長生きしています。
河内国(現:大阪府羽曳野市壷井)生まれ。この時の関白は藤原頼通(藤原道長の嫡男)
源頼信 平直方
┣ |
源頼義=====平直方の娘
┣--------┳---------┳
義家(八幡太郎) 義綱(賀茂次郎) 義光(新羅三郎)
: :
嫡流「頼朝へ」 甲斐源氏、常陸源氏
1028年 平忠常の乱で討伐に父・頼信と出陣し平定。これにより相模守を受領。
妻は平直方の娘。(頼義の武勇に感心して・・・)
1051年 前九年合戦が発生。
東国の乱を鎮めるため陸奥守に任命される。子・義家と出陣。勝利した後、河内の地に石清水八幡宮を壷井八幡宮に勧請した。
実はこの辺から源頼朝を支えてきた三浦一族と源氏との関係が出来上がってきます。
ここから、鎌倉検定本にも詳しく掲載されてくるので親しみやすいですね。
大河ドラマ「炎立つ」では、源頼義役を「故佐藤慶」さんが演じられています。
1039年生 源義家|源頼義の嫡男、河内源氏3代目棟梁
1039-1106年。河内源氏の本拠地河内国で誕生。
石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と称す。
1051年 前九年合戦。父・頼義と出陣。
1083年 後三年合戦が発生。
途中には、義家の弟「新羅三郎義光」が兄の苦戦を知って京都から駆け付ける。
後三年合戦は朝廷は関わりなしとして恩賞を出さなかったのは白河上皇。
1086年 白河天皇(第72代天皇)は子の堀河天皇に位を譲り上皇に。院政が始まり、藤原家の力が衰える。
大河ドラマ「炎立つ」では、源頼義役を「佐藤浩市」さんが演じられています。
10??年生 源義親|源義家の次男
?-1108年。対馬守に任じられたが、出雲や九州で略奪し官吏を殺害し、隠岐に配流される。
白河法皇が平正盛に義親の討伐を命令し、平氏の地位が高まっていく。
この辺りは一族内部争いもあって源氏の勢力が一時的に弱くなる。
兄弟に源義国(三男)がいるが、この血筋から足利尊氏、新田義貞が輩出されている。
平正盛
?-1121年。平安時代後期の伊勢平氏の武将。平清盛の祖父。
白河上皇の院政で重用された。
1096年生 源為義|源義親の4男
1096-1156年。安房国の丸御厨(まるのみくりや)を伝領。
1156年 保元の乱で崇徳上皇方として戦い敗北。
後白河天皇側についた義朝(長男)に殺される。親子の関係は悪かったんですね。
1123年生 源義朝|源為義の嫡男
1123-1160年。白河院政、崇徳天皇即位の年生まれ。
親子間の争い?から少年期に都から東国へ下向。上総氏等の庇護を受ける。
東国の在地豪族と婚姻関係を結び、河内源氏の主要基盤が東国に移ったのはこの時期。
源頼義以来、ゆかりのある鎌倉亀ヶ谷に館を構える。
1159年 平治の乱:藤原信頼と源義朝が協力して兵を起こした。が敗北。
人事や婚姻などを巡って、信西(藤原通憲)と平清盛に不満を抱いていたのが原因。
長男:源義平。鎌倉悪源太。頼朝の異母兄。
三男:源頼朝
源頼朝の父親まで行ったので、ココで打ち止めにしました。
横一列に書くと、
清和天皇ー貞純親王ー経基王ー源満仲ー源頼信ー源頼義ー源義家ー源義親ー源為義ー源義朝ー源頼朝
ですね。
鎌倉を中心に見ていると、どうしても鎌倉時代以降になってしまうので、平安時代までさかのぼる内容はとっても楽しかったですね。
しかし、元々皇族だったのに、途中から藤原氏に仕えたりして、藤原氏の権力って強いですね。