今回は、源頼朝の祖先をずーっと遡ってみました。
どういう祖先がいて、その時の出来事や人物など、ザックリ調べて何か掴めたらいいなと。
目次
清和源氏 ~源頼朝まで
まず最初は清和源氏の名前にもなっている清和天皇からスタートですね!
清和天皇|第56代天皇
850-881年。父:文徳天皇(827-858年|第55代天皇)の第4皇子。母は藤原明子(皇太后)。
第4皇子なのに天皇になったのは、母が藤原家だから、藤原良房の圧力があったと言われてます。
その他兄弟、特に第1皇子~第3皇子の妻は更衣とか宮人で皇太后には敵いませんからね。
ちなみに同母の第3皇女は賀茂斎院になってます。


藤原良房
804-872年。始めて摂政(天皇の外戚で後見役)の地位についた人臣。
父は嵯峨天皇(第52代天皇)の厚い信任を得ていた冬嗣(藤原北家)。その流れを受けて同じく重用された。
藤原氏については、下記の本が分かりやすいですよ。
866年 応天門の変 はこの時期


貞純親王|清和天皇第6皇子
873?-916年。さだずみしんのう。平安時代の皇族。
父は清和天皇。母は棟貞王(むねさだおう|桓武天皇の孫)の娘。
いろいろ調べてみたんですけど、情報少ないですね(汗)
清和天皇の第1皇子は当然のように陽成天皇(869-949年|第57代天皇)になってます。
源経基(経基王)|初代清和源氏
?-961?。みなもとのつねもと。平安時代の皇族・武将。
父親の貞純親王が第6皇子、かつ、清和天皇の孫なので六孫王とも。


938年 武蔵介(武蔵国の国司)として現地に赴任。
農民に無理難題を押し付け、農民の味方だった武蔵国の郡司が平将門に助けを求めた。
<メモ>
国司(国府の役人)の官職の順位は、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)
939年 平将門の乱(東国側)、藤原純友の乱(西国側)はこの時代。
※この二つを合わせて「承平天慶の乱」と呼ばれる。承平天慶の両元号の期間に発生したから。
この時、藤原純友の乱を平定したことで、この血筋が著しく繁栄したようですね。
この時代の話は下記の本がおススメです。
源満仲|基経王の嫡男
912?-997。平安時代の武将。藤原摂関家に仕える。
摂津国川辺郡多々(兵庫県川西市多田)を本拠地にして多田源氏と呼ばれ、摂津に土着。
源満仲の主な子供は下記の通り。
嫡男:源頼光(多田を継承:摂津源氏)→ 明智光秀を輩出。
次男:源頼親(大和国宇野を本拠地:大和源氏)
三男:源頼信(河内国壷井:現羽曳野市を本拠地:河内源氏)
969年 安和の変 政敵だった「左大臣」源高明が太宰府に左遷。冷泉天皇(第63代天皇)の時。
藤原実頼へ密告状を渡したのがこの源満仲と言われる。
986年 花山天皇退位事件はこの時代。花山天皇は第65代天皇。
源満仲は、藤原兼家の命を受けて花山天皇の出家の邪魔が入らないように鴨川の堤から警護した。
花山天皇は西国三十三か所観音霊場を中興した人物。

藤原兼家
929-990年。平安時代中期の公卿。藤原北家。藤原道長の父。
源頼信|源満仲の3男、河内源氏初代棟梁
968-1048年。藤原道兼、藤原道長兄弟に仕える。
河内国壷井(現大阪府羽曳野市)を本拠地にして河内源氏と呼ばれる。河内に土着。
1031年 平忠常の乱を、子の頼義と一緒に平定。
その結果、坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏(河内源氏)が東国で勢力を広げる契機になった。


源頼義|源頼信の嫡男、河内源氏2代目棟梁
988-1075年。河内国(現:大阪府羽曳野市壷井)生まれ。この時の関白は藤原頼通。


1028年 平忠常の乱で討伐に父・頼信と出陣し平定。これにより相模守を受領。
妻は平直方の娘。(頼義の武勇に感心して・・・)
1051年 前九年合戦が発生。
東国の乱を鎮めるため陸奥守に任命される。子・義家と出陣。勝利した後、河内の地に石清水八幡宮を壷井八幡宮に勧請した。
実はこの辺から源頼朝を支えてきた三浦一族と源氏との関係が出来上がってきます。
ここから、鎌倉検定本にも詳しく掲載されてくるので親しみやすいですね。
大河ドラマ「炎立つ」では、源頼義役を「故佐藤慶」さんが演じられています。
源義家|源頼義の嫡男、河内源氏3代目棟梁
1039-1106年。河内源氏の本拠地河内国で誕生。
石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と称す。
1051年 前九年合戦。父・頼義と出陣。
1083年 後三年合戦が発生。
途中には、義家の弟「新羅三郎義光」が兄の苦戦を知って京都から駆け付ける。
後三年合戦は朝廷は関わりなしとして恩賞を出さなかったのは白河上皇。
1086年 白河天皇(第72代天皇)は子の堀河天皇に位を譲り上皇に。院政が始まり、藤原家の力が衰える。
大河ドラマ「炎立つ」では、源頼義役を「佐藤浩市」さんが演じられています。


源義親|源義家の次男
?-1108年。対馬守に任じられたが、出雲や九州で略奪し官吏を殺害し、隠岐に配流される。
白河法皇が平正盛に義親の討伐を命令し、平氏の地位が高まっていく。
この辺りは一族内部争いもあって源氏の勢力が一時的に弱くなる。
兄弟に源義国(三男)がいるが、この血筋から足利尊氏、新田義貞が輩出されている。
平正盛
?-1121年。平安時代後期の伊勢平氏の武将。平清盛の祖父。
白河上皇の院政で重用された。
源為義|源義親の4男
1096-1156年。安房国の丸御厨(まるのみくりや)を伝領。
1156年 保元の乱で崇徳上皇方として戦い敗北。
後白河天皇側についた義朝(長男)に殺される。親子の関係は悪かったんですね。
源義朝|源為義の嫡男
1123-1160年。白河院政、崇徳天皇即位の年生まれ。
親子間の争い?から少年期に都から東国へ下向。上総氏等の庇護を受ける。
東国の在地豪族と婚姻関係を結び、河内源氏の主要基盤が東国に移ったのはこの時期。
源頼義以来、ゆかりのある鎌倉亀ヶ谷に館を構える。
1159年 平治の乱:藤原信頼と源義朝が協力して兵を起こした。が敗北。
人事や婚姻などを巡って、信西(藤原通憲)と平清盛に不満を抱いていたのが原因。

長男:源義平。鎌倉悪源太。頼朝の異母兄。
三男:源頼朝
源頼朝の父親まで行ったので、ココで打ち止めにしました。
横一列に書くと、
清和天皇ー貞純親王ー経基王ー源満仲ー源頼信ー源頼義ー源義家ー源義親ー源為義ー源義朝ー源頼朝
ですね。
鎌倉を中心に見ていると、どうしても鎌倉時代以降になってしまうので、平安時代までさかのぼる内容はとっても楽しかったですね。
しかし、元々皇族だったのに、途中から藤原氏に仕えたりして、藤原氏の権力って強いですね。