今回は金沢街道沿いにある「足利公方邸」の石碑を読んでみました。
鎌倉幕府創立のときから、足利家はずーっとここに住んでいたんですね。鎌倉幕府に反旗を翻した「足利尊氏」も。
目次
足利公方邸旧蹟

「足利公方邸旧蹟」石碑の場所
石碑に書かれている文字は?
頼朝開府ノ初足利義兼居シ此ノ地ニトシテ以来ニ百數十年間子孫相嗣イテ此ニ住ス
尊氏覇ヲ握リテ京都ニ遷ルノ後其ノ子義詮二代将軍トナリテ京都ノ邸ヲ嗣ギ義詮ノ弟基氏関東管領トナリテ兵馬ノ権ヲ此ノ邸ニ執ル而シテ之ヲ子孫ニ傳フ子孫京都ニ比擬シテ公方ト僣偁ス
享徳四年公方成氏執事上杉憲忠トノ不和ノ事ヨリ下総古河ニ遷ルニ及ビテ遂ニ永ク廃墟トナル
大正九年三月建之 鎌倉町青年會
源頼朝が鎌倉幕府を開いた当初から、足利義兼がこの地に居住し、以後二百数十年、子孫達はココに住んだ。
足利尊氏が覇権を握り京都に遷った後、その子「義詮(よしあきら)」が2代将軍となって京都の館を継ぎ、義詮の弟だった「足利基氏」が関東管領となり、この館で軍事を指揮した。
そして、その子孫には京都方になぞらえて公方と呼んだ。
1455年(享徳4年)鎌倉公方、足利成氏の執事「上杉憲忠」との不和により、下総古河に遷り、遂にこの場所は廃墟となった。
大正9年3月建之 鎌倉町青年会
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
兵馬:ヘイバ|軍隊
而:ジ|そして、しかも、すなわち
僣:せん|自分の身分を超えて、不相応な行いをする
事前知識(歴史編)
足利義兼
1154?~1199、武将・御家人。足利宗家2代当主。比較的早い時期から頼朝に従軍。
享徳四年
1452-1455年。きょうとく。後花園天皇、足利義政(将軍)の時代。
足利義政の時代は、あの北条早雲が20才前後。戦国時代がいよいよ始まるといった時ですね。
上杉憲忠
1433-1455年。関東管領。山内上杉家9代当主。5代鎌倉公方・初代古河公方「足利成氏」に誅殺される。
そして享徳の乱がスタートする。
山内上杉家の事については下記のコンテンツにまとめています。
鎌倉公方
鎌倉公方とは室町幕府が作った鎌倉府の長官。
鎌倉府は、関東の相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野、伊豆、甲斐の10か国を支配。
※後に陸奥・出羽も加わる。
鎌倉公方系図
室町幕府を開いた足利尊氏は自分の子供「足利基氏」を鎌倉公方とした。
足利基氏は足利尊氏の四男だが、正室「赤橋登子」の次男。長男は「足利義詮(室町幕府二代将軍)」
足利基氏(初代)-氏満-満兼-持氏-成氏
氏満の時代から、鎌倉公方を支えた犬懸上杉家。最後は鎌倉公方へ謀反を起こす(上杉禅秀の乱)
古河公方系図
鎌倉公方の第五代「足利成氏(しげうじ)」は、室町幕府と対立して、古河公方として下総古河に移り住んだ。
足利成氏(初代)-政氏-高基-晴氏-義氏