今回は小町通りの最後部(鶴岡八幡宮側)に立っている鉄井の石碑を読んでみました。
昭和16年に建立と、この石碑シリーズでは遅めの設置。
解読する側からすると、文字数が多いのがちょっと気になるんですけど・・・。
目次
鐵井(くろがね の い)
「鐵井」石碑の場所は?
石碑だけではなく、最近の案内板や実際の井戸もありますよ。
石碑に書かれている文字は?
鎌倉十井ノ一ナリ
水質清冽甘美ニシテ盛夏ト雖涸ルルコトナシ
往昔此井中ヨリ高サ五尺餘ノ首許リナル鐵観音ヲ掘出シタルニヨリ鐵井ト名付クトイフ
正嘉二年(皇紀一九一八)正月十七日丑ノ尅秋田城介泰盛ガ甘縄ノ宅ヨリ失火シ折柄ノ南風ニ煽ラレ火ハ薬師堂ノ後山ヲ越エ壽福寺ニ至リ境内一宇ヲモ残サズ焼失セシメ餘焔ハ更ニ新清水寺窟堂若宮寶蔵同別當坊等ヲ焼亡セシメタルコト東鏡ニ見エタリ
此観音ハ其ノ火災ニカカリ土中ニ埋モレシヲ掘出シタルモノナラン
尊像ハ新清水寺ノ観音ト傳ヘ後此井ノ西方ナル観音堂ニ安置セラレシモ明治初年東京ニ移セリトイフ
昭和十六年三月建 鎌倉市青年團
鉄の井は鎌倉十井の一つである。水質は澄んで冷たく甘くておいしく、真夏でも水が涸れることは無かった
その昔、この井戸の中から高さ約150cm(5尺)の頭部の鉄観音を掘り出したことから鉄ノ井と名が付いた
1258年正月17日午前二時頃、安達(秋田城介)盛長の甘縄の邸宅より火事が起き、南風に煽られて火は、薬師堂の後ろの山を越えて寿福寺に至り、境内は一つの建物も残らず焼失した。さらに火は、新清水寺、窟堂、若宮宝蔵、別当坊等までも燃えたしまったことが吾妻鏡に書かれている。
この観音はその火災の時、土中に埋もれてしまったものを掘り出したものですある。
その観音像は新清水寺の観音と伝えられて、後日、この井戸の西側にある観音堂に安置されたが、明治初年になって東京に移された
昭和16年3月建 鎌倉市青年団
※間違っていたらごめんなさい。
事前知識(漢字・用語編)
清冽:セイレツ|水が澄んで冷たいこと
甘美:カンビ|味が程よく甘くてうまいこと
雖:いえど|~ではあるけれども
首許:くびもと
丑:ウシ|十二支のひとつ。午前二時。
尅:コク|きざむ
折柄:おりから|ちょうどその時、~の時節だから
五尺:1尺は約30.0cm。尺貫法における長さの単位。日本は1958年12月31日で禁止。
事前知識(歴史編)
正嘉二年
1258年。しょうか。1257-1259年。
後深草天皇、宗尊親王(将軍)、北条長時(執権)の時代。
新清水寺(しんせいすいじ)
鉄ノ井の(山を挟んだ)西側、浄光明寺付近は新清水寺谷と言われる場所になる。
大観音寺(東京都中央区)
鉄ノ井から出てきた「観音像の頭部」は、江戸時代までは、鉄の井の向かい側に観音堂を作って安置したが、明治の廃仏毀釈で取り壊され、現在は移されて、東京都中央区人形町の大観音寺の本尊となっている。
鎌倉十井
鎌倉名数史跡の一つ。鎌倉十井(かまくらじっせい)。
安達盛長
秋田城介は、現代で言う、会社の役職みたいな感じ。本名は安達盛長。